東京美術講演会録11冊から明らかになる。購入の記録である前者と、購入以外の入手品がわかる後者―20―『下村観山伝』が詳細な伝記として知られているが、そのもととなった日記と考えらとで、観山作品が三溪所蔵となった経緯が推察される。つまり、そこには三溪と天心が発起人となったが幻に終った後援会「観山会」との関わりがあり、購入のほか、贈与という形での所蔵経緯があったと考えられるのである。また、観山の日記は、これまで公表されることはなく、観山の三男・英時によるれる。現存6冊、主に鑑定の覚書や来客者名簿のような記録で、記録者は英時や弟子などである。三溪或いは三溪園に関する記録は、6冊全てにみられ、全52項目の記事がある。三溪は大正12年(1923)の関東大震災以降、横浜の実業家として市街地の復興に尽力したため、美術品の収集および作家への支援はとりやめた。しかし、記録からは、支援中止後の観山との交流が明らかとなり、その内容をみると、観山は大切な客人を三溪園に案内するなど、観山にとって三溪と三溪園は心安い人と場所であったと窺える。最後に、観山の作画の理想が、三溪の支援とどのような関わりがあったかを、上記の記録類から考察する。大正初めから、画壇は日本の伝統を打破し革新されていく気風があり、観山の作風は打破される側にあった。そうした背景の中、伝統を遵守し、計算された色と構図で描かれた観山の院展出品作の中には、三溪の依頼画があると記録に明記されている。ここには依頼画=出品画という大きな意味があり、観山の理想を具現化するものであったと結論づけられる。ややもすれば、パトロンの存在が画家にとって不本意な対象となったり、画家の存在がパトロンにとって投資の対象となりうる状況になったりする危険があるが、上記考察を通して、観山と三溪の関係においては、そのような憶測を超えた両者の深い結びつきを見出すことができる。本年度の東京美術講演会は以下の通り、実施された。日 時:2008年11月14日■場 所:鹿島KIビル 大会議室出席者:約200名
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