―34―Chinese and Japanese art』のなかで、大坂の四条派画家西山芳園について、「He was the⑭ 帝国美術院展と京都の工芸last great all-round artist of Shijo.」と記述し高く評価しており、一概に大坂の四条派がから、芳園などの優れた作品が遺存しているにもかかわらず、これらの画家を研究の対象とすることはなかった。しかしながら、アーネスト・フェノロサは、『Epochs of評価に値しないと断定できるものではないことが確認できる。大坂画壇を否定的にとらえる数多くの研究者は、大坂の画家の作品を実際には見ていないにもかかわらず、京都画壇に包摂して〈上方〉としてとらえている傾向があり、芳園の作品が知られていないことも大坂軽視の要因といってよい。江戸後期は写生派全盛の時代であり、四条派をはじめとする写生派の絵画は、京都画壇や江戸画壇と同様、大坂でも隆盛した。大坂は、〈三都〉の一つとして経済的、文化的に繁栄した大都市であったことから、特殊な文化基盤が形成されていたと考えても何ら不自然ではない。加えて、大坂画壇の存在が認められつつある現在において、西山芳園を中心とした大坂四条派の研究は、新たな日本美術史の形成に大きく寄与することから、極めて重要かつ意義深い研究であると考える。したがって、申請者の調査研究の目的は、西山芳園を中心とした大坂四条派の研究を通じてその変遷を体系的に考察することで、京都と江戸という二項対立的な枠組みでとらえられがちな従来の日本美術史観に、大坂という第三の新たな視座を加えることにある。言い換えれば、欠落してしまった大坂画壇の変遷を補完することで、日本美術史の再構築を試みることを目的としている。研 究 者:京都市美術館 学芸員 後 藤 結美子明治40(1907)年の文部省美術展開設以来、切望されていた官展への美術工芸部門の設置が昭和2(1927)年、第8回帝国美術院展においてついに実現した。この帝展への工芸部門の編入は、工芸が近代美術として認知されたという点で、近代工芸史に特筆すべき出来事とされてきた。本研究では、工芸の帝展編入に際して、従来触れられる機会が少なかった京都の工芸界を例に取り、工芸家たちが帝展参加を契機に、いかに美術としての工芸を模索し、芸術家としての意識を深化させていったかを探る。まずは、帝展工芸部をめぐる言説に着目したい。初期の帝展においては、工芸が美
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