―51―のと考えられている。しかし、興福寺の例からも分かるように、遅くとも奈良時代には、講堂にも仏像が安置されるようになる。この変化は何故、そして、いつ起こったのだろうか。古代の仏像について考察するためには、この問題を解決する必要がある。にもかかわらず、これまでの仏教彫刻史研究において、このような安置堂宇の問題が十分に考慮されてきたとは言い難い。講堂に「本尊」として仏像を安置することは、当然のことと見なされてきたのである。しかし、元々「本尊」は密教経典に用いられる語であり、当初は修法の中心となる尊のことを意味していた。奈良時代以前に「講堂本尊」という概念が存在しなかったことは確実で、講堂には中心となる尊像が必要、との概念さえなかった可能性が高い。古代の講堂に仏像を置くことは自明のことではなく、講堂で行なわれた仏教儀礼や、仏像に期待された宗教的機能との関係で理解すべき現象なのである。このような視点に立って古代の仏像を見た時、飛鳥時代から平安時代初期にかけての幾つかの重要な作例に関して、これまで見過ごされてきた様々な問題が浮上する。と同時に、従来議論のあった問題にも新しい見方を導入することが可能になる。それは、像そのものの意味や機能の問題だけではなく、古代寺院における多様な伽藍配置や、そこで行なわれた法会の問題とも密接に関わる議論になるはずである。また、これまで尊格ごと、時代ごと、宗派ごと、作家ごとに論じられてきた種々の仏像について、講堂という堂宇を軸に論じることは、堂宇の機能と像との関わりを、共時的かつ通時的に考察することを可能にする。申請者がこれまで行ってきた東寺講堂諸像の研究も、そのための一事例として大いに活用でできる。また、多くの事例を総合的に分析することは、東寺講堂諸像の機能を、より一層明確にすることにも寄与するだろう。講堂に置かれた仏像の意味の問題は、古代において仏像とは何であったのか、というより根本的な問題に繋がっている。と同時に、伽藍配置や法会など、仏像に限らない古代における仏教の様々な具体的様相を明らかにする糸口ともなるはずである。
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