鹿島美術研究 年報第26号
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A16世紀パルマにおける古代研究の一側面―55―かと考えている。以上のように、これまであまり言及されてこなかった同時代の絵画史料と比較することで、内膳の新しい絵画表現が、狩野派外部との接触により可能となっていたことが明らかにされるだろう。―コレッジョのカーメラ・ディ・サン・パオロ装飾を中心に―研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士課程後期  小 松 健一郎パノフスキーによる研究(1961)以来、カーメラ・ディ・サン・パオロは、イコノロジー研究の格好の的とみなされてきたが、ゴンブリッチやカルヴェージ、近年のフラッツィにいたるまで、その装飾プログラムについてはいまだ見解の一致を見ていない。先行研究では、リュネット部の古代の神々の図像源や部屋の各所に刻まれた銘文の典拠が部分的に明らかにされているものの、注文主を含むパルマの人文主義的環境との関連については曖昧なままとなっている。それは、古代彫刻を意識したこの装飾を安易にローマに結びつけてしまい、画家と古代およびローマとの接点についても、1518年頃に推測されているローマ旅行をもってすべてを解決しようとする傾向があったためである。本研究において、実際に作品が制作されたパルマの人文主義における古代研究との関連を具体的に探ることは、この装飾イメージ群を統合するプログラムやその典拠となったテクストを特定し、かつ画家の活動にとって古代=ローマが果たした役割を明らかにする上で極めて重要である。サン・パオロ修道院は、注文主の死後250年に亘って俗人の立入禁止令が施行され、コレッジョの作品もまた、ほとんど人目に触れることのないままとなっていた。18世紀にこの作品が「再発見」され、メングスをはじめとする歴史家・理論家たちによって熱狂的に迎えられたのは、ヴァザーリ以来疑問視されてきた画家と古代との接点を証明するものと見なされたためであった。こうした見解はロンギにも引き継がれ、カーメラ・ディ・サン・パオロがローマ旅行の最初の成果として見なされるに到って、本作品におけるパルマ人文主義の持つ意義は極めて限定的なものと考えられるようになった。こうした問題に立ち返り、ローマ旅行による視覚的体験だけではなく、パルマにおける古代研究、とくに古銭コレクションとの関係を詳細に探ることは、カーメラ・ディ・サン・パオロ自体の解釈にとって有益であることに加え、パルマという文

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