鹿島美術研究 年報第26号
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D12・13世紀の日本における如意輪観音像の展開―58―12〜13世紀頃から、如意宝珠も輪宝も持たない二臂の像が「如意輪観音」と称された。研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程  清 水 紀 枝如意輪観音は如意宝珠と輪宝の力を象徴するほとけと考えられているが、日本では本研究の目的は、その具体的な経緯および二臂如意輪観音への信仰の実態を解明し、当時の主流であった六臂像に対する二臂像の位置づけを探ることにある。日本における特異な二臂如意輪観音像は、以下の2つのタイプに大別される。①半跏思惟タイプ:右手を頬に近づけ、左足を垂下する、いわゆる半跏思惟像例:中宮寺本尊、広隆寺泣き弥勒、法隆寺聖霊院像など②石山寺タイプ:右手を施無畏印、左手を与願印とし、左足を垂下する像例:石山寺の当初の本尊、東大寺大仏左脇侍、岡寺本尊など申請者は①の現存作例の多くが、13世紀頃、醍醐寺の僧侶たちによって初めて如意輪観音と称されたことを見出した(「半跏思惟形の二臂如意輪観音像の成立背景―醍醐寺との関わりを中心に―」『美術史研究』第46冊、早稲田大学美術史学会に掲載決定)。醍醐寺は9世紀に如意輪観音を本尊として開創して以降、如意輪観音を特に篤く信仰してきた寺院である。一方、②の石山寺本尊は、奈良時代に造立されて以降、単に「観音」とされていたが、10世紀末の仏教説話集『三宝絵詞』に至って、「如意輪観音」と記されるようになる。石山寺には9世紀以降、聖宝や弟子の醍醐寺僧たちが入寺し、その経営の中心的存在となっている。よって①と同様、②についても醍醐寺僧によって如意輪観音と称されたことが想定される。そこでまず文献史料から、石山寺本尊の尊名に醍醐寺僧がどのように関与していたのか具体的な様相を明らかにした上で、①と②の影響関係について追究する。さらに、二臂如意輪観音に期待された功徳を探るため、造立の際の願文や当時の日記などを精査し、その信仰の実態を明らかにする。すなわち本研究の最も大きな意義は、ある像容に尊名および功徳がいかに結びついてゆくか、というプロセスの具体例を提示することにある。さらにほぼ未開拓である二臂如意輪観音への信仰を軸として各寺院や僧侶の関係を捉え直すことになるため、仏教信仰史や寺院史の分野にも新たな視点を提供できると考えている。

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