E円覚寺所蔵五百羅漢図に関する研究―59―(大覚寺本、明兆本)研究へも成果を還元できるものと考える。研 究 者:神奈川県立歴史博物館 学芸員 梅 沢 恵従来の美術史研究においては、制作年代が先行する名品や著名な画家の作品の類例作である場合、その作品の個別性が軽視されてしまう傾向がある。五百羅漢図の場合、大徳寺本という南宋時代の名品、さらに東福寺の画僧である明兆の描いた五百羅漢図の存在がより知られているために、円覚寺本はやや等閑視されてきたといえる。本研究では、円覚寺本について次にあげる点について明らかにし、美術史学上の位置づけを行なうことを目的とする。また、円覚寺本の個別研究を行うことにより、類例作①全五十幅について各幅の画題を特定する。②各幅間で羅漢の顔貌、山水表現を比較し、画風の違いを明らかにする。③羅漢以外の人物像(おそらく実在人物の肖像画)について顔貌表現、服制などから社会的帰属等を明らかにする。④五百羅漢図の伝来、類例作(大徳寺本、明兆本)も含めた伝承について資料を収集し、検討する。日本では中世以来、室町幕府の唐物目録『君台観左右帳記』が舶載画についての価値観に大きな影響をあたえてきたという事情がある。さらに、政治的、経済的中心が鎌倉から京都へと移動したために、室町時代以前の鎌倉地方にどのような舶載文化がもたらされていたのかを今日考えることはきわめて困難ではある。しかし、南北朝時代の円覚寺塔頭の什宝目録『仏日庵公物目録』には「五百羅漢箱 一合」とある。本図がそれに該当するかは別として、五百羅漢図が鎌倉の禅宗寺院の什物となっていたことがうかがえる。鎌倉にもたらされた宋元文化の受容を考える上でも、中国寺院の法会や清規の内容を絵画化した図が鎌倉時代にすでに舶載されていたことの意味は大きい。また、円覚寺本の作品研究を踏まえた上で④に挙げたように大徳寺本、明兆本の鎌倉地方にまつわる伝来、伝承についても検討したい。
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