など、この屏風は謎に満ちています。岡本氏はそのモチーフを詳細に考察しました。そしてこの屏風が、実際に営まれていた室町時代後期の庭園を反映したものである可能性を指摘したのです。雲霞表現の分析もこの結論を補強しています。いわゆる和漢混淆の複雑な在り様を具体的に提示して、今後の中世屏風研究に一つの視座を設定することに成功しています。なお、これらとともにすぐれた評価を集めた黄立芸氏の名前も、是非挙げておきたいと思います。その研究は東京国立博物館に所蔵され、明代花鳥画の優品として有名な呂紀筆「四季花鳥図」を取り上げたものです。筆者の伝記資料と作品の考究から、呂紀における唐宋絵画学習の実体を鮮やかに解き明かしています。《西洋美術》財団賞受賞者 孝岡睦子「 パブロ・ピカソ初期作品と伝統―スペイン前衛美術と優 秀 者 吉澤早苗「中世末期のシエナにおける風景表現の誕生早熟な画才を示したピカソは、1897年にはマドリードの王立アカデミーに入学するが、間もなく退学して、1898年にカタルーニャの大都市バルセロナで世紀末のモデルニスモの運動に身を投じる。1900年からパリとバルセロナを往復しながら活動を開始し、1901年からの「青の時代」を経て、1904年のパリ定住とともに「バラ色の時代」へと移行し、1907年には《アヴィニョンの娘たち》を描いて20世紀の絵画界に鮮烈なデヴューを果たした。孝岡睦子さんは、バルセロナのモデルニスモの拠点である居酒屋「四匹の猫」での1900年2月のピカソの個展にはじまり、1901年6月のモデルニスモの代表画家ラモン・カザスとの二人展、ほぼ同時期にパリで開催したスペイン画家イトゥリーノとの二人展などに関するバルセロナとパリ双方の雑誌・新聞での批評を精査し、それらの批評から、世紀転換期にピカソがカタルーニャ固有の民族意識と伝統を踏まえた近代化運動であるモデルニスモと、芸術活動や批評や美術市場の面で最先端にあったパリから受けた影響を浮き彫りにした。特に、1838年のルイ・フィリップに「スペイン的」なものをめぐって―」―ドゥッチョの《マエスタ》『山頂での誘惑』を中心に―― 15 ―(文責:河野元昭委員)
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