2.中世末期のシエナにおける風景表現の誕生 ―ドゥッチョの《マエスタ》「山頂での誘惑」を中心に― 発表者:東京藝術大学 美術学部 教育研究助手 吉 澤 早 苗シエナ絵画に関し、たびたび指摘されたのは、自然描写に際しての地誌的リアリズムであった。しかし、風景表現の成立にとって重要なのは、現実の観察と共に、さまざまな要素を内包する広がりの印象を統一的に捉える構図である。無限の世界から切り出した一片の空間に、一個の全体としてのまとまりを見る傾向は、いまだ古い図式と結びついたドゥッチョの景観表現にも萌芽のかたちで現れている。本発表では、シエナ大聖堂の祭壇画《マエスタ》の物語サイクルの一場面「山頂での誘惑」(1308−11年 ニューヨーク、フリック・コレクション)を主に取り上げ、地上のありさまを展望するその構図を、当時の都市社会で普及しつつあった空間の評価法と結びつけることで、中世末期のシエナに風景の表現が生まれた理由を考えてみたい。「山頂での誘惑」は、《マエスタ》のサイクルの中でもそう関心度の高い場面ではない。けれども、これを過去の誘惑図と比べるなら、山の頂から世のすべての国々を見下ろす景観図の大胆さが分かるだろう。ドゥッチョは山や都市を象徴する旧来の概念的モティーフを利用しながら、それらを画面の上で孤立させず、前景から漸次遠ざかる空間の中で互いを秩序づけ、ひとつの具体的な風景イメージに変えようとしている。風景に向かうドゥッチョの視線は、都市やその周辺世界に対する同時代社会の見方と関連づけられる。土地の広がりを対象化し、諸要素の相互関係からなる全体を高み1300年代前半のシエナ派が環境世界の外観に対して見せた独自の感受性は、多くの研究者の注目するところである。アンブロージョ・ロレンツェッティの《善政の効果》(1338−39年 シエナ、パラッツォ・プッブリコ)に代表されるその風景表現は、絵画の主題である政治的寓意や宗教的物語に依存し、近代の風景画のような自律的意味を持ってはいない。だが、漠とした土地の広がりにひとつの明確なイメージを与えようとする画家たちの試みは、古代の景観図とは別の、空間についての新しい解釈を示している。― 18 ―
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