3.四川省雅安市高頤闕にみる漢代儒教図像の地域的展開 発表者:早稲田大学 文学部 非常勤講師 楢 山 満 照から見下ろす態度は、領地経営その他の実用目的で使われ始めた地誌的地図に認められ、空間を統一的に把握するまなざしは、秩序ある自らの町の美観に都市の理想を見出した市民のものであった。ドゥッチョにとり、そうした見方を受け入れるのは難しくなかったと推測される。フィレンツェのジョット等と違い、絵画空間の構築にあたり、人物像の支持体として画平面と直交する平らな地面を必ずしも要求しなかった彼は、下から上に展開する二次元の画面を、手前から向こうに後退する空間の奥行きとみなし、そこに人々の期待する展望的景観を投影することができた。《マエスタ》の物語場面を支配するのは、あくまで人物像であるが、これを越えて広がる空間の全体性に目を向けたドゥッチョの景観図は、アンブロージョ・ロレンツェッティへと続くシエナ派の風景表現の端緒を開くこととなったのである。発掘報告や文献資料の記述により、当時の支配者層が造営した墓域は、地下の墓室と地上の祠堂や門闕からなる複合施設であったことが明らかにされている。しかし従来、漢代美術の研究は、墓室内部を飾る画像石などの出土資料を主な考察対象として図像解釈が進められてきた。それに対し、今なお地上に現存する石闕については、形態による概括的な研究に留まっており、地上に造営された石闕の図像、主題と、地下の画像石との相関関係、役割の分担等については、未だ十分には検討されていない。石闕とは、後漢時代の2世紀から3世紀前半にかけて、地上の墓域に造営された石造の門を指し、死者の眠る墳墓に至るまでの参道入口に建てられた建築遺構である。その形態は石材をもって同時代の木造の門闕を模しており、屋根を支える組物の間には、神仙世界の住人や儒教系歴史故事に登場する聖賢など、様々な主題をあらわす多くの図像を浮彫りしている。石闕は死者の世界と現世を分かつ役割を担う装飾性豊かな地上のモニュメントであり、漢代の葬送儀礼と深く関わる石刻美術作品として捉えることが可能である。― 19 ―
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