鹿島美術研究 年報第27号
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では、そのような空気とはいかなるものであったのだろうか。まず、ピカソはカタルーニャのモデルニズムを通じて前衛的な表現に対して自覚的となり、さらに、1900年を境としてバルセロナからパリを目指し実際にその地を踏んだ。このようなピカソの意識と移動は、モデルニズムの芸術家たちを見渡せば決して特異なものではなかったことがわかるだろう。ピカソ同様、19世紀末に前衛的な意識をもつスペインの芸術家たちで、当時の芸術の中心地パリを意識し、訪れ、生活した者は少なくなかったのである。ここで、モデルニズムは内と外、あるいは過去と未来、と表面的には相反する流れが衝突する場の只中にあったという点を強調しておきたい。世紀転換期において、特にバルセロナはフランスをはじめピレネー山脈の向こう側をモデルとして近代化への意識を高揚させていたと同時に、固有の民族意識を強化すべくカタルーニャの起源や伝統を再認識しようとしていたのである。くわえて、この動きの中にはモデルニスタが参入した地フランスにおいて期待されるスペイン像が交差していたことも忘れてはならないだろう。そしてこれらのような社会環境は、ピカソやパリを目指したスペイン画家たちの芸術に少なからず影響を与えたのではないだろうか。以上の点を考えてゆく上の足がかりとして、本発表では、世紀転換期にピカソやスペイン画家がパリの美術界に進出してゆく諸様を検証し、スペインとフランス両国間の対話の中にある彼らの作品、あるいはそれに向けられた批評を分析する。そして、フランスにおけるスペインの像と同時代の言説にある「スペイン的」という語がもたらす意味作用へも意識を注いでゆきたい。近年、アヴァンギャルドと伝統、あるいは解、あるいはアフリカ、オセアニア芸術からの影響をめぐる言説はもとより多彩な論考が提出され今日に至る。この研究史において、《アヴィニョンの娘たち》へはまた様々な影響、引用の対象が挙げられてきた。それらが一方ではエル・グレコなどによるスペインの古典絵画や古代イベリア彫刻であるのに対して、他方ではセザンヌやマチスなどによるフランスの近代絵画が主であるという点は注目に値するといえよう。なぜならば、このような対象モデルの混在やあり方は、《アヴィニョンの娘たち》が制作された時代と場所の空気を微かに浮き立たせてくれるものであると考えるからである。― 21 ―

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