― 34 ―⑫ 菱川師宣の徒然草図制作に関する研究の視点からこの地の美術活動を概観する年表を作成し、芸文指導要綱施行以降の状況も記述したが、背景となった美術に関する諸制度の変革、為政者の政策意図等が明確でなかったため、断片的な事実を羅列したにとどまった。本調査は、満洲美術家協会および満洲芸文連盟の組織と活動内容を明らかにすることで、この時期に中国東北部で行われた美術統制の実態を明らかにしようとするものである。本調査が完成した暁には、成果は美術にとどまらず、文学や音楽など他の分野の研究にも及び、旧満洲国、旧関東州における文化統制の全体像を明らかにすることにつながると考える。また旧満洲国で文化統制を担った国務院弘報処と日本の内閣情報局の間で人事交流があったことを考えると、日本国内の文化統制、さらには東アジア諸地域で日本が行なおうとした文化統制の全体像を明らかにすることにもつながると考える。調査の成果は、関係法規集、各組織の役員、会員名簿、活動一覧といった客観的な資料集としてまとめ、幅広い分野の研究者が活用できるものとしたい。研 究 者:国際浮世絵学会 事務局 阿美古 理 恵新興都市江戸の様子を捉え、生前より、浮世絵の祖とされた師宣は、古典に取材した作品を数多く制作している。なぜ、浮世絵師として名をなした師宣が、大和絵師と自称し、古典画題を殊更に描き出そうとしたのか。この点について、当時の画壇の状況に照らして詳細に論じられたことはない。本研究では、師宣による徒然草図の制作背景に注目し、在野の町絵師である師宣が、宮廷で発生した古典文化復興の流行にどのように対応し、絵画制作の需要拡大に努めていったのかを明らかにしていきたい。師宣の『大和絵つくし』の徒然草第四十五段は、『なぐさみ草』の挿絵を参考に描かれたことが日野原健司氏によって指摘されている。この他にも、中村正衛氏蔵「雑画巻」に描かれた第五十四段、第七十三段の図等に、『なぐさみ草』との類似点を見出すことができる。住吉具慶筆「徒然草図下絵」(斎宮歴史博物館蔵)の図様の源泉となったのは、『なぐさみ草』の挿絵や、同じく註釈書である『徒然草寿命院抄』(秦宗巴著 慶長九年
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