鹿島美術研究 年報第27号
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(1604))であることが指摘されている。また、具慶が徒然草を絵画化する際、貞門の俳諧師・北村季吟が助言を加えていたことも推察されている。江戸の住吉派は、京都の土佐派とは地位を異にし、狩野派と対等な幕府御用の奥絵師であった。それだけに江戸の住吉派は、「和画士住吉」の印を用い、狩野派とは別派の「和画」の流派であることを主張した。― 35 ―⑬ ヴィッラ・マダマの装飾におけるジュリオ・ロマーノ1520年の枢機■ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の書簡からは、ジョヴァンニ・ダ・ウーディネにストゥッコを、ジュリオ・ロマーノには物語場面ないしその下絵を準備させ、ジョヴァンニが描くという分担への期待が示されているものの、実際の芸術家たちの共同作業はうまく運ばず、ロッジャ壁面リュネットの《ポリュフェモス》を除いては、ジュリオ・ロマーノの制作はいまだ不明瞭である。本調査を通じてヴィッラ・マダマの装飾とジュリオの他作品とのモティーフのつながりが明らかになることで、ヴィッラ・マダマ装飾においてジュリオ・ロマーノがある程度の下絵素描を準備した可能性が問われ、更には主題選択の面でも芸術家の素養となったことが示唆されると考えられる。その結果として、作家研究の観点に留まらず、ラファエッロと教皇レオ10世の死から、「ローマ劫掠」にいたるまで発展した、教皇クレメンス7世治下のローマ芸術から各地のマニエリスム芸術へ連なる美術史的潮流がより詳細に分析されることになるだろう。師宣が、レパートリーブックともいえる雑画巻に『なぐさみ草』由来の図を入れたのは、それが版本であり、入手し易かったことにもよるが、『なぐさみ草』の当時の位置づけにもよると考えている。師宣が、貞徳による徒然草の註釈を忠実に絵画化しようとする姿勢や、大和絵師と名乗った理由を、住吉派との関わりに求めることができるのではないかと考えている。研 究 者:東京藝術大学大学院 美術研究科 博士後期課程  深 田 麻里亜本調査研究の目的は第一に、盛期ルネサンスを代表する建築であるヴィッラ・マダマの、必ずしも十分には研究されていない内部装飾の形成過程とその派生について、実制作を担った芸術家という観点を導入することで明らかにすることにある。こうしたヴィッラ・マダマの装飾に関する研究成果は、申請者が執筆準備中である

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