鹿島美術研究 年報第27号
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― 53 ―㉜ 敦煌仏頂尊勝陀羅尼経変相図の成立に関する研究②  敦煌莫高窟第217窟壁画の制作年代についての問題。壁画や窟の様式、西壁の供養者題記に出てくる陰氏と敦煌文書「敦煌名族志」残巻(ペリオ番号P2625)との検討などにより、神龍年間(705〜706)とみなす説(賀世哲氏)があるが、この見解の当否について一度検討し直し、自分なりに年代的な位置づけを行う必要がある。された背景を探り、また反対に北周に受容されなかった背景などを考察したい。研 究 者:早稲田大学文学学術院 非常勤講師  下 野 玲 子この研究が最終的に目指しているのは、中国の中央で発生した仏教信仰が一地方である敦煌へ伝播するのにどのくらいの時間を要したのかという、文化の伝播の問題への解明に多少なりとも資することである。従来、唐代初期の敦煌莫高窟壁画は、貞観16年(642)題記を有する第220窟壁画の完成度の高さから、敦煌内部での自立的発展によってこのような新様式の壁画が成立したとはとうてい考えられず、この頃には隋末唐初の戦乱で途絶えていた中央支配が再開し、その影響が直接及ぶようになった結果とみなされてきた。仏頂尊勝陀羅尼経変相図もその流れの中にあると推測される。私は本研究によって、ある信仰が実際にどの程度の時間差をもって中央から敦煌にまで及んだのかという問題を掘り下げ、できれば一つの具体的なケースとして提示したいと考えている。手順としては、仏頂尊勝陀羅尼経が翻訳された経緯を説明した「序」の成立年代から、莫高窟最初の仏頂尊勝陀羅尼経変相図の制作年代までの年数を特定する作業をおこなうことになる。そのためには以下のような解決すべき問題点がある。①  仏陀波利訳仏頂尊勝陀羅尼経の「序」の成立年代に関する問題。「序」の作者・年代は明記されていないが、文中から成立の上限は永昌元年(689)8月といえる。経幢その他の刻経で「序」を含む作例を丹念に見ていくことにより、その成立年代の下限、あるいは中央地域での流行開始時期をある程度狭めることができよう。ただし近現代中国の報告書・記録には、「序」の文中に出てくる儀鳳元年(676)、垂拱3年(687)、永昌元年などの年号を経幢制作年と誤解して記録している例が時折みられるため、注意が必要である。

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