鹿島美術研究 年報第27号
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― 55 ―㉞ 庭園施設と阿弥陀堂の建立 ─法華寺阿弥陀浄土院と平等院鳳凰堂─研 究 者:早稲田大学會津八一記念博物館 助手  三 宮 千 佳本調査研究では、大和の総国分尼寺の法華寺阿弥陀浄土院と同じように、平等院鳳凰堂の堂宇が唐代の僧侶の浄土の景観に関する考え方や阿弥陀浄土図の図像を参考にして庭園施設に建立され、建立の深層には頼通に天皇に匹敵する権力を誇示する意思があったことを論じる。私は前稿(三宮2008)において、6世紀の成都万仏寺廃址出土の浄土変相図のレリーフや、初唐、盛唐の敦煌莫高窟の阿弥陀浄土図には、皇帝の苑の景観に必須の「池」「樹木」「建造物」の3つの要素が見られることに着目した。古代の皇帝の苑では中心装置として池が穿たれたが、上記の浄土図もすべて池が中心であり、仏の説法には歌舞をともない、あたかも皇帝の宴の様相を呈する。よって浄土教が隆盛しはじめた時、そうした皇帝の苑と経典でしか知ることができない西方浄土のイメージが重なり、皇帝の苑をモデルに阿弥陀浄土変相図が描かれたとした。すると、わが国の法華寺の寺地はもともと藤原不比等の邸宅であるが、そこは臣下の邸宅でありながら南地域一帯には当時天皇しか造りえなかった巨大な池と中島を中心とした庭園施設があった。私は、光明皇后の当時最も憧れていた西方浄土の池が、唐の僧侶は皇帝の苑の池を想定し、浄土図のモデルとしていることを知り、法華寺の庭園施設の池も西方浄土の池に生まれ変わらせようとして、阿弥陀浄土院を発願したと結論したのである(三宮2008)。ところで平等院鳳凰堂は、従来の研究では単純に阿弥陀浄土図をもとにしてデザインされ建立されたと、ごく表面的にしか語られてこなかった。しかし平等院鳳凰堂の地もまた、もともと天皇家の土地(別業)であり庭園施設であった。上記のように、唐代の浄土観がわが国にはすでに奈良時代に流入していたなら、皇帝の苑と浄土の景観が結びつき、そして庭園施設に浄土堂を建立するという中国の伝統は平安時代にも受け継がれたと思われる。藤原頼通もまた藤原家の人間として、光明皇后ら先達と同じように天皇に匹敵する権勢を求め、また西方浄土を求めて、平等院鳳凰堂の造営が成立したとすることが、造営の深層であり真の意義であろう。光明皇后ももとは藤原家の人間であり、皇后となったが、生家をさらに高みに押し上げるために、実家を天皇家の寺院とし、さらに中国の皇帝の苑をモデルとする西方

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