― 62 ―㊷ 渤海と日本の仏像に対する密教図像学的比較研究についても詳細は本研究において考証したいと思うが、この画面において光琳は、道真公の物語の情感を見事にひきつつ、横長の絵巻の画面において相対する梅樹、蛇行する遣水の形態の妙といった、画面の表象美を写し取ることに、大きな意味を見出しているように見える。こうしたことに基づいて本研究においては、天神縁起絵巻を主とする中世絵巻群の画像データから広く検索し、詳細に琳派におけるそれらの転用例と比較検証することで、「物語」の転用に加えて「造形」の転用がそこにおいては特に重要視されること、そしてひとえにこの「造形」の面における絵巻絵画の独特の手法が、琳派の作品をはじめとする日本の近世絵画の一つの大きな基盤となっていることを具体的に確証したい。またそうした考察を通じて、描画手法の実際を主軸に、中世から近世へと、日本絵画史を新たに眺望できればと考える。研 究 者:武蔵野美術大学大学院 造形研究科 博士後期課程 林 碩 奎本研究は渤海と日本の仏教彫刻を図像かつ様式面から比較・研究することによって未だその正確な実体が不明である渤海の仏像の様相を把握すると共に、9世紀における渤海と日本の間の文化交流を理解することを目的とする。渤海は、698年に大祚栄が高句麗の故地に建国し、976年に契丹によって滅ぼされるまで、279年間続いた国である。渤海の版図は現在の中国吉林省および黒龍江省の大部分と遼寧省の一部、ロシアの沿海州、そして北朝鮮の咸鏡南・北道および平安北道地域にまで及んでいた。渤海は早くから唐や五代、日本、新羅などの周辺国家と政治・文化・経済面において交流を行った。渤海と日本との関係を日本側の資料を中心にしてみると、渤海は727年からおよそ200年間公式的に34回にわたって使臣を派遣し、日本も13回にわたって遣渤海使を派遣したことがわかる。渤海史に関する従来の研究は、韓国と北朝鮮、また中国や日本、ロシアなど、かつて渤海の故地の上に建国された国、あるいはその国と歴史的な関連を有する国に対する歴史学的観点からアプローチするものが多かった。また、渤海の仏像に関する研究は、不明であった作例の所在を把握することや、作例の形式・様式に関する考察が主
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