― 63 ―㊸ 15世紀後半のイタリアにおけるシビュラ信仰とその図像展開についてをなしていた。結局渤海の仏像の歴史的な伝統は把握できたものの、仏教彫刻を通じて同時代の他の国家との交流関係を積極的に考察しようとする試みはさほど行われなかった。本研究では古代東アジアの基をなす唐以外の国々の間の交流によって花を咲かせた文化交流の一面に照明をあてる。研 究 者:イタリア、ピサ高等師範学校 博士課程 増 田 千 穂本研究の特色は、15世紀後半のシビュラ図像を、プログラムの一部としてではなくひとつのテーマとして抽出し、当時の社会現象である「シビュラ信仰」という側面から解釈する点にある。人文主義保護者としての性格の強い貴族たちの邸宅や礼拝堂に「シビュラ」というテーマが選択された背景として、予言(預言)文学の流行、千年王国思想などをベースとした当時の「シビュラ信仰」を読みとる研究はかつてない。この視点からの研究は、当時のシビュラ図像に影響を与えたであろう写本、出版物などの新たな一次史料を提示することを可能にするだけでなく、この社会現象を要として複数の作例を包括的に観察することで、単にキリスト教の正統性を証明する異教古代モチーフとして解釈されがちであったこのテーマを、より時代背景を反映させた形で見直す契機となる。申請者はこれまで、15世紀後半のシビュラ図像流行のきっかけとされるドメニコ会士フィリッポ・バルビエーリの小冊子『Discordantiae Sanctorum Doctorum Hieronymi et Augustini』(1481)の読解と成立背景の解明を行ってきた。その結果、①この小冊子でシビュラが扱われた背景に、ローマ、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会修道院のドメニコ会士たちのヨアキム主義への関心が指摘されること、②13世紀にヨアキム・ダ・フィオーレのサークルで編纂された予言集を引用していることから、千年王国思想の影響が考えられること、③シビュラを新しい神学の誕生のシンボルとして扱っており、ここにハンガリー、フィレンツェ、ナポリの人文主義者たちの影響が考えられること、などの可能性が浮上した。この3点を、以下の調査によって深化させることが現在の研究目標である。① ローマ、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会修道院周辺のシビュラに関す
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