― 64 ―る一次史料の発掘:1470年代以降、同修道院のドメニコ会士たちは、同付属図書館に伝わっていたヨアキムや聖ブリジッドなどの予言(預言)文書を利用して独自の神学論を展開、出版していた。バルビエーリがシビュラを扱ったのも、こうした予言文学への関心によるものと考えられる。そこで、同図書館に収蔵されていたシビュラに関連する写本の発掘、同修道院のドメニコ会士たちの出版した小冊子の中でのシビュラへの言及の調査を行い、当時のシビュラ図像の流行に影響を与え得た一次史料を新たに提示したい。② 12、3世紀に編纂されたシビュラの予言集の15世紀後半におけるリバイバルに関する考察:バルビエーリが、13世紀に編纂されたシビュラの予言集を使用したことは、千年王国思想という文脈で生まれたこの予言集が15世紀後半の時代状況の中で再認識されていたことを物語るものである。そこで申請者は、12、3世紀にかけて編纂されたシビュラの予言集(『Vaticinium Sibyllae Erythraeae』〈1249〉/Goffred da Viterbo, 『Pantheon』とその付録『Vaticinium Sibillae』〈1185〉/Matthew Paris, 『Chronaca Majora』〈1240−1253〉)を検討するとともに、これらの史料が15世紀においてどのように受容されていたかを考察したい。③ ハンガリー、フィレンツェ、ナポリでのシビュラの受容の調査:バルビエーリは1470年代、説教師として高く評価され、ハンガリー、フィレンツェ、ナポリに招かれ、説教を行った。この3つの土地の君主、マーチャーシュ・コルヴィヌス、ロレンツォ・デ・メディチ、フェルランテ1世とナポリ枢機■オリヴィエーロ・カラファのこの時期の政治的、経済的、そして文化的関係を考えれば、それぞれに関連するシビュラ作品が伝わっているという事実は興味深い(エステルゴム、ジョアン・ヴィッツ邸〈1472〉/フィレンツェ、サンタ・トリニタ教会、サセッティ礼拝堂〈1483−1486〉/ナポリ枢機卿に献じられたバルビエーリの論文〈1479〉/サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会、カラファ礼拝堂〈1489−1491〉/マーチャーシュ・コルヴィヌスの時祷書Ms. Urb., 112〈1492〉など)。15世紀後半におけるこれらの地域間の人文主義者たちの交流は近年、歴史学の分野で注目されつつあるが、この着眼点からシビュラの受容の実態とその図像の関連性の解明が期待できる。
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