鹿島美術研究 年報第27号
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― 73 ―■ 京都府画学校の研究研 究 者:京都市立芸術大学芸術資料館 学芸員  松 尾 ■ 樹幕末にいたるまで、日本の文化的中心のひとつであった京都は、東京奠都により存在基盤を失うなか、文化と経済の活路を模索した。京都府知事槙村正直・北垣国道らが推進したいわゆる京都策は、京都の再生を推進するための政策であり、明治13年に、日本で最初の日本絵画の学校として京都御苑内に開校した画学校の設置もその一環として認識されている。画学校は従来年表的には必ず触れられる存在でありながら、その実態について語られることは少なく、一般に、明治11年に田能村直入及び幸野楳嶺らが京都府知事に行った建議により開設を得たとされる。しかし、新規事業がひしめく当時、資金は枯渇し、近世以来の慣行に生きていた画家たちの近代的学校教育に対する認識は低く、産業界はまた画家達と異なる思惑を持っていた。その開校が綱渡りであったことはほとんど知られていない。画学校の開校が、こうした京都の絵画界にどのような展開をもたらし、再生を渇望する産業界とどのように関係を持ちながら、社会に影響を与えたのか、時代の潮流の中で、画学校が果たした役割を探ることは、まさに京都における絵画の近代化の過程を探求する作業と考える。近代が、中央と地方また、組織と個人のありかたを問い直すなかで、画家たちも、新しい思考を求められるようになった。画家もまた社会の一部である。近世を乗り越えるために、彼等の集合する画学校が、組織としてどのような近代化の道を選び、また抵抗しようとしていたのか、作家論の一側面を補うことができるだろう。本研究は、これらの問題を探るために、画学校を、開設の経緯、校舎校地、校則教則、教員、生徒、事業の諸側面から、考察するものである。衰頽しながらも確固たる文化的基盤を持っていた明治初期の京都という土地の特殊な属性を背景に、学校と社会との関わり方を通して、画学校の近代絵画史における座標を探りたい。

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