鹿島美術研究 年報第27号
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〜1636)により提唱された「南北二宗論」をその発端とし、のちの中国絵画史の形成に多大なる影響を及ぼした。それにもかかわらず、文人画家の系譜に組み入れられた画家が、実際に過去の画家を意識したうえで絵画制作を行い、またそうした画風の受容が画家にとってどのような意味を有していたのかという観点から検討した論考は、決して多いわけではない。― 75 ―文徴明は、生涯にわたって数多くの古画を実見し、それらから学びとった表現技法を自身の画風へと吸収していった。しかしながらその画風の受容には、明らかな選択が見受けられる。すなわち文徴明は、趙孟頫、王蒙など、こんにち文人画家と呼ばれる画家の画風を、積極的に取り入れた。とりわけ1530年代には、王維風の雪山図である《関山積雪図巻》、王蒙風の山容を有する《松壑飛泉図》、そして趙孟頫や黄公望作品の構図と表現を取り入れた《石湖清勝図巻》などの、これまでにない大作を立て続けに完成させる。このことから、1530年代は、文徴明の積年の古画学習が自身の画風として吸収、確立されていく時期であるとともに、文徴明が、文人画家としての意識のもとで絵画制作を開始する時期であったと考えられる。すなわち文徴明は、どのような画家の作風を踏襲するかによって、自身の連なる文人画家の系譜をしめそうとしたのではないかと考えられるのである。本研究では、1530年代の作品のなかでも、特に王維風雪山図からの影響が顕著な《関山積雪図巻》の絵画表現と成立背景の考察を中心に、文徴明の過去の文人画家に対する意識、画風の受容について精査していく。それによって、のちに南北二宗論において提唱される、王維を始祖とした文人画の系譜が、文徴明の頃からある程度意識化されていたことを指摘したい。また、こうした意識は、むろん画家個人の文脈によって形成されるものではなく、人的交流や制作の場によって左右されるものであると考えられる。とりわけ1530年代の大作は、その多くが王寵という友人のために制作されたものであることから、画風の選択においても、少なからず王寵との関係が考えられる。したがって文徴明の当時の交友関係や文芸活動を行った土地といった、作品のうみだされる場のコンテクストに着目し、成立背景を考察してゆきたい。以上、本研究は、文徴明の画業における1530年代の作品の重要性に新たな見解を提示するほか、中国絵画史上における文人画制作の一様相を明らかにすることができるものと考える。

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