鹿島美術研究 年報第28号
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本の広告表現は「美人画」からの離脱を開始する。広告は常に社会の要請を反映して変化する。本発表は、1921年以降の日本のポスターの変化を、背後にある多数の要因、近代的な消費社会や、関係者の意識変化を反映した重要な指標と捉えて分析するものである。この年、日本画を主業とする田中一良、玉村善之助(方久斗)、村雲毅一らの前衛画家集団「高原会」は、多様な欧米ポスター156点を色刷りで紹介した日本初の図集『ポスター』を出版する。彼らは、「今後の社会ではあらゆる方面でポスターがますます必要となつていき、その使命はますます重大となり……国民の政治的経済的の生活から日常の感情生活までをも支配するかくれた力をもつてゐる」と、ポスターの持つ威力を明確に意識し、同時に「今の日本のやうな幼稚な醜い状態」を憂いている。そして展覧会翌年に発刊された「大戦ポスター展」図録において、後に服飾心理学で知られる菅原教造が、大戦ポスター展では展示が少なかった第一次大戦以前のドイツポスターの表現特質に対する形容詞として、新用語「単化」を創出した。以降、形態を簡略化しベタ塗りで表現する平面的な「単化」は、ポスターというニューメディアに相応しい表現として理解されていく。ポスター研究家であり実業家でもあった田附與一郎は、1926年の著書『欧米商業ポスター』において、菅原よりも明確に、具象を簡略化した表現を「単化」という用語を使って解説し賞賛した。この翌年刊行された国内初のポスター研究誌『アフィッシュ』では、ポスター制作の第一人者杉浦非水が「美人画」ポスターを徹底して批判し、これに対抗する新しい表現を「単化」と呼んだ。このようにポスター黎明の1921年以降の数年で、専門家の間では着実に旧態の「美人画」と対抗する新しい表現=「単化」、という価値観が足固めされていった。この価値観は1930年代に入ると、濱田増治が編纂した『現代商業美術全集』によって町場の広告制作者に広められていく。そして1930年代なかばには「単化」は乱造といわれるまでに拡大する。「単化」は、1930年代後半以降制作され始める写真やタイポグラフィを用いて画面を構成する現代的な表現と、直前まで長く続いた「美人画」表現の全盛期との端境期にのみ強く標榜され、一世を風靡し、そして程なく消えて行った。「単化」の創出・興隆・消滅の過程は、日本の広告デザインが、広告効果を意識しない絵画的表現手法から、社会的な役割を担うメディアのデザインへと変化するために踏み出した最初の一歩を示しているのである。― 18 ―

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