鹿島美術研究 年報第28号
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― 41 ―⑰ 古代ローマの私的領域における犠牲式図像⑱ 明治・大正期を中心とする近代京都洋画壇の研究っている。また、東国において広まりを見せた運慶様式の仏像の造像には、有力武士の関与が想定されている場合が多い。従来、運慶の東国関係の造像については、主に運慶の下向・非下向の問題や、政治的意味に関する問題が関心を集めてきたが、本研究では、願成就院諸像を題材に、東国に関わる運慶の事績をその仏像の受容者の信仰に即して理解する視点を提示したい。このことは、東国における運慶様式の受容の問題、さらには、運慶の伝説化の問題について考察するための糸口にもなると期待される。研 究 者:千葉商科大学 非常勤講師  坂 田 道 生これまで個人宅に表された犠牲式図像に関して、体系的な調査は行われておらず、全ての図像を集めたカタログは存在しなかった。それゆえ、現在までに知られる全ての私的な犠牲式図像の図録をつくることがこの研究の第一の意義である。そして時代の変遷にともなう表現の変化に関して考察を行い、これら私的な犠牲式図像と公的な犠牲式図像との相違を検討して、両者を識別する指標について明確にしたい。犠牲式図像はしばしば再利用されており、異なったコンテクストにおいて解釈されている。図像表現に基づいて、それら図像に関して元来の用途に基づき新たな解釈を試みることができるだろう。例えば、多くの人が目にする公的な性格の強い作品として制作されたとされてきた作例が、実は、私的な意味合いの強い個人の邸宅の装飾として制作されたと考えられる場合には、文脈の違いのために図像の解釈は全く異なるだろう。研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程  石 井 香 絵京都洋画の発展は、明治期の代表的な洋画家・浅井忠が明治35年に京都移住してからと解釈されることが通例である。しかし、同地の洋画家の活動が当時一般に注目を集めはじめたのは、浅井が京都に定住する以前の明治34年6月、関西美術会(第三次)結成以降のことである。京都には洋画の普及と発展を目指す画家たちが幾人も存在

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