鹿島美術研究 年報第28号
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― 42 ―し、明治20年代から個展や合同展覧会の開催、詳細は不明ながら第一次・第二次関西美術会の結成といった活動を行っている。浅井以降の洋画壇の発展はこうした地元の洋画家たちによる活動の積み重ねを根底にしているが、ここで述べたような問題意識による、在住の洋画家たちを中心とした研究はこれまでになされていない。個別の洋画家についても、田村宗立は比較的言及されているものの、伊藤快彦、櫻井忠剛、山内愚僊、牧野克次といった京都(および阪神)の主要画家たちの経歴も未だ詳しくたどれていない。本研究では明治初期から始まる京都洋画の流れに特に重点を置き、資料・作品調査を行ったうえで、画壇が最も隆盛する明治後期の時代から、梅原龍三郎、安井曾太郎、黒田重太郎、須田国太郎といった次世代の京都出身の洋画家について考察を加える。これによって、従来の見方を超えた京都洋画壇の歴史を新たに提示出来ると考えている。本研究の主軸を成すのが、上述した京都の洋画団体・関西美術会および、会員個別の活動と作品の考察である。田村や伊藤といった洋画家を中心とし、後に浅井や鹿子木孟郎、都鳥英喜らも参加する同会は京都洋画壇の母体であり、聖護院洋画研究所、関西美術院など洋画の研究機関を生み出した主要団体でもあった。同会を一次資料に沿って調査することで、当時の大阪画壇との交流、京都の日本画家との交流や、京都博覧会、内国勧業博覧会の参加といった洋画家の多様な活動状況を知ることが出来る。さらに洋画展覧会の開催や雑誌の発行のみならず、活人画会や仮装会、月例の寄り合い的な会合である二十日会の開催など、娯楽的傾向を含む催しを多く行っているため、これらについても考察を進める予定である。また個々の絵画作品の考察に関しては、関西美術会の洋画家たちがかつて通った京都府画学校や入門した東京の画塾をたどり、帰京後の作風展開について検討を加える。とりわけ京都で洋画を飾る習慣がほとんど無かった明治中期の肖像画受容の問題や、日本家屋に適合させた■額や屏風、掛軸などの形態で描かれた油絵に着目し、当時の絵が飾られる空間と洋画普及のあり方について考察する。

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