― 45 ―㉑ 19世紀イタリアにおける美術品流通―カメリーノ由来のカルロ・クリヴェッリ作祭壇画をめぐって―契機になると期待される。また、イタリアでも本格的な研究が始まって日が浅いスクオーラ・ロマーナを日本で紹介する機会にもなろう。研 究 者:大阪大学大学院 文学研究科 博士後期課程 上 原 真 依本研究は、カルロ・クリヴェッリがカメリーノの為に制作した数点の祭壇画の解体と流出、散逸の過程を、史料・実地調査に基づいて明らかにするものである。ヴェネツィア出身の画家カルロ・クリヴェッリは、15世紀後半イタリア中部マルケ地方の町カメリーノの聖堂の為に数点の祭壇画を制作した(《カメリーノのサン・ドメニコ祭壇画》、《サン・ピエトロ・ディ・ムラルト祭壇画》、《カメリーノのドゥオーモ祭壇画》、《磔刑図》)。これらの祭壇画は、おそらく19世紀初頭までカメリーノの聖堂内に保管されていたが、1811年、ナポレオン政権下のコミッショナー、アントーニオ・ボッコラーリが行った美術品接収により、祭壇画の構成パネル12点がミラノへ運ばれ、その後ブレラ絵画館に収められた。ボッコラーリに接収されなかったプレデッラやチマーザなどの比較的小規模なパネルも、教会関係者や地元の有力者などにより次々と売却され、カメリーノから持ち出された。またブレラ絵画館も獲得していた12枚のパネルのうち5枚を別の作品購入の際の交換財として利用し、さらなる祭壇画の解体を招いた。こうして、カメリーノ由来の祭壇画構成パネルは、現在のように世界各地に分散することになった。19世紀当時、ルネサンス期作品としての祭壇画に対する関心は必ずしも高くなく、各構成パネルは、その本来の姿は考究されることなく、市場価値の高く輸送に便利な「タブロー」(独立した額絵)へと変えられ、流通したのである。カメリーノ由来のクリヴェッリ作祭壇画群はまさしく、ナポレオンによる美術品接収、教会関係者や地元の有力者による美術品売却、作品の「タブロー」化と流通という、19世紀におけるルネサンス期祭壇画流通の諸相を示すものである。これまで19世紀におけるクリヴェッリ作品流通の背景は、イギリスの蒐集家の間に広がっていたプリミティブ絵画への関心と関連づけて論じられてきた(スーザン・アヴェリー・クワッシュ[2003年]、ピエトロ・ザンペッティ[1986年])が、国外の需要者の関心だけでは祭壇画を解体した理由としては不十分であり、また解体・売却の
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