― 46 ―㉒ 光琳作品における古典主題具体的状況も検証されていない。すでに2009年ローマでの古文書館調査で、カメリーノ由来の《ピエタ》の売却申請を発見しており、これに加えてボッコラーリによる輸送記録や各パネルの売却申請記録など、客観性の高い一次史料にもとづくことで、19世紀に盛んに流通したクリヴェッリの祭壇画が「タブロー」として市場価値を獲得した過程を明らかにできると考える。また、カメリーノ由来の祭壇画群は、各パネルのサイズ改変や、作品に関する記録の少なさから、再構成が非常に困難な祭壇画群である。これらの19世紀の売却申請記録は、諸説あるカメリーノ由来の祭壇画の原状再構成にも大きく寄与することが期待できる。研 究 者:東京文化財研究所 企画情報部 研究員 江 村 知 子本研究は、これまでの光琳研究においては宗達作品の学習や影響として見なされて等閑視されることが多かったやまと絵人物主題を具体的作例として、光琳の主題選択とそこに見られる表現の特徴、そしてその制作が光琳の画業全体においてどのような意味を持つのかを明らかにする。さらには江戸中期という時代においてその伝統的絵画手法がどのように位置づけられるのか、という問題についても考察を広げる。光琳作品のなかに、伊勢物語を主題ないしは着想源とする制作が少なからず存在すること、そして光琳自身が富裕な高級呉服商に生を受けながらも青年期には家業は没落していったことから、光琳を都落ちする在原業平に重ね合わせるような解釈もこれまでに提示されている。魅力的な説ではあるが、雁金屋ゆかりの東福門院筋の二条家に頻繁に伺候しながら、自らの絵師としての活動の場を拡げていった事跡に鑑みれば、光琳の主題選択・作品制作は、周到なマーケティングのもとに行われていたと見るのが妥当である。つまり、光琳はどのようなテーマをどのようなスタイルで描けば最も高く評価されるか、という意識を常に持っていたと考えられるのである。王朝・古典文学にまつわる主題は、当時の享受者層にとって好まれるものであったか、あるいは作り手側である光琳が、新たな需要を刺激していたことも推測される。団扇画の作例が数多くあると、光琳は円形の画面形式を好んだ、と解説される向きもあるが、『二条家内々御番所日次記』などで光琳が綱平夫人やその母である女院(霊元天皇妃)に宛てて扇を数多く献上している事例を考慮すれば、需要のある画面形式に応じて自
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