鹿島美術研究 年報第28号
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― 48 ―㉔ 近世における「長恨歌図」の調査研究 ―版本との関係を中心に―研 究 者:同志社大学大学院 文学研究科 博士課程後期  村 木 桂 子近世の奈良絵の「長恨歌図」に関する本研究は、古代から近世に至る「玄宗楊貴妃図」の歴史的変遷を明らかにすることを目的とする必要欠くべからざるものである。古代の作品は現存していないが、宇多天皇の命により、白居易の詩「長恨歌」の場面を描いた屏風絵が制作されたことが文献に記されており、恋愛にかかわる文学的情趣を重視したものであったことがうかがえる。また、信西入道が後白河法皇に玄宗の失政を描いた絵巻を進覧したとの記録もあり、勧戒画としての働きも持っていたことも予想される。中世には、玄宗治世の逸話を集めた『開元天寶遺事』を典拠とする新しい画題が出現する。《扇面貼交屏風》(南禅寺蔵)がその一例で、扇面に「風流陣図」や「並笛図」などを描き、五山の禅僧が施した題詩を読む限り、教訓的な意図は読み取られず、為政者の繁栄を言祝ぐものとなっている。近世において、「玄宗楊貴妃図」は障屏画・絵巻・冊子の形態で描かれたが、障屏画では、『開元天寶遺事』に基づいた「玄宗故事図」と、《明皇・楊貴妃図屏風》(フリア美術館本)のように「長恨歌」を絵画化する「長恨歌図」の二系統が共存した。いずれも大画面に玄宗の官廷風俗を金碧濃彩で描くことによって、為政者の権威を高め、公的空間を装飾するに相応しいものであった。もっとも、障屏画には小型のものも存在する。《長恨歌図屏風》(国華本)がその一例で、小ぶりの金泥屏風に奈良絵風の描写がなされており、その内容は奈良絵の《長恨歌絵巻》(大谷本)と同じく、近世初期に出版された世俗的内容をもつ「長恨歌」の注釈書の『やうきひ物語』を典拠としている。さらに仮名草子の挿絵と共通する描写や、子孫繁栄や女人往生などのモチーフが挿入されていることなどから、富裕な町人のための婚礼調度として制作されたと推定される。このことは、「長恨歌図」が為政者のためのみならず、町人のために制作されるようになったことを示している。本研究は、奈良絵を中心とする「長恨歌図」の特性を把握することによって、近世における「長恨歌図」の女性化・通俗化・和洋化の過程を解明することを目的とする。

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