鹿島美術研究 年報第28号
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―16世紀後半のアントウェルペンにおける都市景観を伴う田園風景の展開―― 63 ―㊶ 地誌的な指標としての都市の表象と見なす思想は、前漢時代に特に流行した、崑崙山に住まう西王母の元へ昇仙せんとする思想とは相容れないものであると同時に、三国時代から南北朝時代にかけての中国においては主流をなす死後観である。そうであれば、墓銘を挟む左右の門柱にあらわされる西王母の図像については従来の解釈とは異なる性格が指摘できるのではないか。図像配置についても、一番重要な図像が配置される門楣に西王母の画像が配置される例は、実のところさほど多くはなく、一方でその位置に、日月を伴う神獣など、西王母を中心とする神仙世界とは解釈しがたい図像を配置する例が見られる。それらの神獣は、西域を連想させる天馬・象など異国的色彩の強いものが主であり、人々が異域の地である外国と、常ならぬ世界である神話的異界とを、重ね合わせてみていたことが想定できよう。このような図像の取捨選択と配置から、漢代の人々の抱いた異界イメージが、従来議論されてきたような崑崙山信仰に基づくものばかりではなく、辺境において人々が実際に目にした、異国的風物によって構築されたものも含まれ得ると考えられる。本研究を通して、後漢時代中葉期以降に制作された画像石において、神話的図像がどのような思想・文化の反映として存在し得たかについて、地域的・時代的状況に即した、より詳細な解釈が提示できるのではないかと考える。研 究 者:Bunkamura ザ・ミュージアム キュレーター  廣 川 暁 生風景画というジャンルは17世紀の新興国オランダで成立したと言われている。近年その成立に際し、16世紀末に南ネーデルラントからオランダへと移住した画家たちがオランダの各地で果たした役割が強調される傾向にある。その一方で、16世紀末にアントウェルペンで活動した画家たちの描いた風景画に関しては、まとまった研究が進んでいないのが現状である。とりわけ1559年にアントウェルペンの版画出版業者、ヒエロニムス・コックによって発行された「小風景画」シリーズは「地誌的」な風景画の非常に早い作例といわれ、17世紀にオランダで版を重ね、オランダにおけるその影響力の大きさについての先行研究が数多く見られる一方で、16世紀の南ネーデルラン

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