鹿島美術研究 年報第29号
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 4.フ ランソワ・ブーシェによる王立ボーヴェ製作所のタピスリー連作〈神々の愛〉とんどは東洋画部への出品であった。これについては、台北の第三高等女学校の図画教諭であり、台展の創設から1935年の第9回展まで審査員を務めた日本画家、郷原古統との関係が、これまで指摘されている。実際、台展・府展に参加した台湾人女性画家の多くが第三高等女学校の出身者であり、郷原の離台後は、台展東洋画部における女性画家の入選は急速に減少している。郷原の台展東洋画部における影響力、教師としての力量がうかがわれる。しかし、たとえ郷原という有力者がいたとしても、専門的な美術教育機関もない中で日本画を学ぶことは決して容易なことではなかった。それでは、なぜ、多くの台湾人女性たちは日本画を学ぶことになったのだろうか。発表では、いまだ十分な考察がなされていない、この経緯や背景について、同化政策と台湾の女子教育の面から述べたい。当時、台湾人の日本人への同化は、植民地政策の根幹であり、日本語の習得と国民精神の涵養が力説された。この国民精神は、美術では日本画に帰されるもので、第三高等女学校の教育方針でも日本画が奨励されていたのである。つまり、台展・府展の東洋画部への台湾人女性画家の集中は、このような教育方針─それは、良妻賢母の「日本女性」を育成することで家庭の中からの同化を目指すもの─を映すものだったと思われる。また、発表では、台湾近代画壇を代表する女性「日本画家」、陳進の、台湾画壇と台展・府展東洋画部に果たした役割に言及する。つまり、陳進は、内地に対して台湾画壇の自立性を伝える役割を担い、台展・府展においては、画家として植物画の典型を示し、続く女性画家たちを励ますとともに、女性画家の入選がとくに集中した第6〜8回台展の審査員として、台湾人女性の視点から女性画家を評価する役割を担った、と考えられるのである。以上を通して、台展・府展東洋画部への女性画家の集中が、郷原古統の存在だけではなく、家庭の中からの同化を女子教育で推進した植民地の政治性を映し出す事象であり、陳進の存在も重要だったことを明らかにしたい。 発表者:東京藝術大学 非常勤講師 小 林 亜起子ロココ時代を代表する画家フランソワ・ブーシェ(1703−70)が、タピスリー下絵― 20 ―について

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