1.小川一眞という人物写真師で唯一、帝室技芸員を拝命した小川一眞(1860(万延元)年〜1929(昭和4)年)は、これまで写真撮影から、印刷、出版の一連の事業を展開し、成功させた事業家といった評価がなされてきた。しかし、小川の事績を丹念に調べると、日本で最初の写真団体「日本写真会」の一員として、当時の写真雑誌『写真新報』に海外の情報や写真表現を積極的に紹介し、海外作家の作品集を出版するなど、海外の写真文化の日本への導入者という、これまで注目されていなかった一面をもっていたことがわかった。2.写真家、興行主としての小川一眞研 究 者:兵庫県立歴史博物館 学芸員 五十嵐 公 一山本友我は鳳林承章の日記『隔蓂記』に頻繁に登場する絵師である。寛永二十一年(1644)十一月五日条で初めて登場し、鳳林承章とは急速に親密となったようだ。そして、その関係により、後水尾院から屏風絵制作が命ぜられるようになり、慶安元年(1648)二月二十九日には法橋にも叙せられている。順調に名声を上げていったことが分かる。ところが『狛平治日記』『板倉政要』によれば、その後、友我は金融詐欺まがいの行為を働いたため、息子の山本泰順とともに死罪となったという、特異な人生を送った絵師だといえるだろう。友我は後水尾院の周辺で活躍し、法橋位も得ているので、当時は名の知られる絵師だったはずである。ところが、現時点で紹介されたことのある友我の作品は「麝香猫図」(妙法院)、「平敦盛像」(須磨寺)の二点だけである。このように、絵師・山本友我に関してはまだ分からないことが多い。そこで本研究では、友我に関わる作品と史料を広く集めたい、そして、可能な限りこの絵師の人物像を明らかにしたい。それができれば、日本美術史の興味深い研究対象を増やすばかりではなく、寛永時代の文化の知られていない一面を明らかにもできるはずである。研 究 者:東京都歴史文化財団 学芸員 岡 塚 章 子― 26 ―② 山本友我の研究③ 明治期における写真文化の発展に小川一眞が果たした役割について
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