鹿島美術研究 年報第29号
46/104

研 究 者:福岡市博物館 学芸員  末 吉 武 史九州地方の平安神将形像に特異な形制(四天王像がすべて兜を被る、両手を前に交差して剣を地に突く、金鎖甲を彫出する)があらわれる理由は、最終的には作品個々の検証から導き出されるべきであり、また、中央から地方へという通常の文化伝播のルートに沿った検証も必要と思われる。しかし、一方でこの問題を読み解くための視点として大陸に近い九州の地理的環境にも充分に注意を払わねばならないと考える。平安後期は日宋の貿易が活発化し、博多においては「唐房」が形成された時期であるが、近年知られるようになった中国・寧波周辺に残る南宋時代の神将形像作例(東銭湖墓群の石像)が九州における上記特色を兼ね備えることは興味深く、汎東アジア的な視点から、その影響関係を視野に入れた検討も必要であろう。また、こうした外来的な影響があったとすれば、これを受容する側の内在的な論理も明らかにすべきであり、平安後期の九州が置かれた宗教・社会的状況も考察の対象となろう。この点については歴史・宗教史・国文学等の成果を援用することが可能であり、例えば天台法華思想と一体化して九州に広がった八幡護国思想、八幡神の本地を阿弥陀とする神仏習合的浄土信仰、あるいはこうした八幡信仰を宣揚した太宰権師大江匡房の存在、さらには八幡宮を皇室の祖神である応神帝の廟と見なす当時の思潮も、辺境における護国思想や中世の神国観念の醸成と絡んで考慮すべき問題と思われる。本研究では以上のような多角的なアプローチによって偏在する彫刻表現の意味を読み解き、最終的に九州の彫刻史における新たな視点を提示することを目論むものである。本研究の目的は、大きく分けて三つある。第一の目的は、田中訥言(1767−1823)の諸作品を、模本も含め実地調査を行い、基礎的データを蓄積する。模本については祖本との比較検討を行った上で、訥言が古画に何を学び、その後の作画にどのように反映させたのかを検討し、その画業を明らかにしたい。第二の目的は、訥言と松平定信との関係を明確にすることである。訥言は、定信が― 31 ―⑧ 九州における平安後期神将形像の基礎的研究⑨ 田中訥言の古画研究 ─松平定信との関係に注目して─研 究 者:徳川美術館 学芸部 係長  吉 川 美 穂

元のページ  ../index.html#46

このブックを見る