惣奉行となった寛政度造営内裏障壁画の制作に携わり、また定信の命で文化年中には「平等院鳳凰堂扉絵」の原寸模写を行っており、訥言と定信の間には少なからず関わりがあったことがわかる。定信は『集古十種』『古画類聚』などの編纂や「石山寺縁起絵巻」の欠巻を谷文晁らに製作させるなど、古文化財の調査・模写事業で知られる人物である。定信の縁により、谷文晁らの関西における古器物・古書画調査の末尾に加わっており、こうした経験がその後の画業に多大な影響を及ぼしたと考えられる。定信をめぐる模本制作や人間関係を明らかにすることは、訥言の画業を考える上で重要な手がかりとなるとともに、定信の文化事業の一端を解明する糸口となるはずである。第三の目的は、幕末にかけて復古大和絵派のみならず流派を超えていっそう盛り上がりをみせる古器物・古書画の調査や模写、さらには画壇における古典復興といった大きな潮流の中に、田中訥言の古画研究を位置づけることにある。古器物・古書画への関心は、国学の発展とともに十八世紀の半ばすぎにはその萌芽をみせ、定信の実父田安宗武や尾張徳川家九代宗睦(1733−99)らがすでに、大名のネットワークを利用して古画を閲覧、模本制作に及んでいる。復古大和絵派の定義ともいえる古画研究・模写という行為は、画家の修練と画嚢を豊かにするためと画家側の視点から捉えられがちだが、大名や社寺の宝庫に蔵された古画を模写する際に政治的な援助や諸手続きを少なからず要するという点に着目すれば、社会的・政治的な要素を多分に含んだ文化的営為ともいえる。こうした発注者側の立場、そして谷文晁をはじめ同時代の画家、訥言と交流のあった国学者・考証家・故実家の連携を考慮に入れることにより、人的ネットワークを含む広範な視野を持った研究が可能になると思われる。さらに、幕末にかけて盛んとなり、明治以降の近代日本画にも継承される古典復興の源流が奈辺にあったのかを探る手がかりになることが期待される。研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程 久 保 佐知恵意義:讃岐に生まれた篆刻家・細川林谷(1782−1842)は、今日でこそ殆ど無名であるが、在世当時は江戸第一の篆刻の名手と称せられ、江戸時代後期を代表する作家として、日本篆刻史にその名を留めている。一方、絵画史においては、文人画家と見― 32 ―⑩ 細川林谷研究 ─旅と交友を中心に─
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