作品に加え、同時代の工芸資料にも視野を広げ、具体的な考察を行う。白綾屏風、白絵屏風それぞれの形態を具体的に考察することで、先例を重んじ大きな変化を生じにくい儀礼の場において、強固に継承されたものと変容を生じたものを明らかにできると考える。また、人生儀礼の規式を伝える有職故実の変遷にも視野を広げ、白綾屏風の変化の要因として、時代の変化、公家と武家という担い手の変化などがもたらす儀礼形態の変化にも注目したい。本研究の意義および価値は、白綾屏風から白絵屏風への変化を、屏風形式の変化という美術史上の視点に加え、儀礼に求められる機能の変化という文化的社会的な変化としてとらえることにより、儀礼の場の美術を考える際の視点の一を提供することにあると考える。研 究 者:下関市立美術館 学芸員 関 根 佳 織狩野芳崖(1828−1888)は、近代日本画黎明期における重要な人物の一人と目されている。しかし、絵師として第一線で活躍した時期は晩年の5年間ほどのことで、それまでは一地方の御用絵師でしかなかった。私の勤務する下関市立美術館や近隣の長府博物館に所蔵されている、芳崖の長府藩御用絵師時代の作品は、狩野派の伝統を踏襲したものであり、芳崖が将来、近代日本画の父と称されるようになる姿を見て取ることは難しい。実際、明治3年の長府藩分限帳には禄高が30石とあり、当時藩内において特別な評価が下されていなかったことが史料からも窺える。本研究の目的は、このような一地方の御用絵師が近代日本画の父と呼ばれるに至るまでの画風の変遷について、作品を整理し検証することにある。特に今まで明確な史実をつかむことのできなかった明治12年頃から15年頃までの、島津家に雇われていた時期の動向を探る。先行研究では、瀧精一「芳崖、雅邦を論ず」(昭和2年)以後、芳崖と島津家との関係やその頃の作品について、ほとんど触れられることがなかった。しかし、この時期の前後で画風の変化が看取されることから、同時期の動向や作品を精査することは、芳崖最晩年の作品を考察するうえで大変有効な布石となると考えられる。さらにこの考察は、芳崖の画業全体を把握する上でも重要であり、かつ意義のあることと考える。この研究の価値は、芳崖の画業をより明らかにすることにとどまらず、近代日本画― 49 ―㉕ 狩野芳崖の画風変遷について ─明治10年代を中心に─
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