鹿島美術研究 年報第29号
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であるが、画塾での活動はそれらを超える意味を持っていたと考えられる。特定の空間や生活を彩るための装飾プロジェクトとは異なり、信仰の画家を志していたドニにとって聖なる空間を創造する仕事は特別な意義を持っていたはずである。宗教芸術という新たな切り口を導入することで、ドニ研究に一石を投じることができればと期待している。ドニの再検証をひとつの手がかりに、将来的には日本に紹介されていない数多くの作例を調査し、作品に基づいて再考することで、20世紀フランスのキリスト教美術の展開を概観したいと考えている。研 究 者:豊島区文化デザイン課 文化芸術グループ       生涯学習指導員(学芸・研究)(非常勤)   小 林 未央子池袋モンパルナスの全容を知るために、まず初めにその前史に相当する時期(大正中期から昭和初期)に、どのような人々がどのように池袋周辺に集まっていたのかを基礎データについて美術ジャーナリズムを中心に蓄積し、考察することを第一の目的とする。本研究では、どのような場で人々が知り合い交流していたのかを整理する際に、雑誌媒体とその編集部に着目する。『中央美術』を特にとりあげるのは、『中央美術』が主催した中央美術展という展覧会に、松本竣介も靉光も、岡本唐貴も出品していたからである。そこには、小熊秀雄が「池袋モンパルナス」の言葉を初めて使ったとされる「池袋美術家倶楽部結成を祝ひて」でまさに「党派を超えて欺くの如く集る」と言うような状況がみられる。中央美術編集部も池袋にあったが、昭和初期から戦後にかけても池袋近辺にはそのような場が多かった。プロレタリア美術研究所は池袋にあ1918(大正7)年、東京美術学校の学生だった里見勝蔵が池袋に住み始めた。里見は「池袋」に住んだ最初期の画家である。もっともそれ以前には、池袋にほど近い田端文士村として知られる北区に、小杉未醒や山本鼎、森田恒友ら、『方寸』に集った作家たちも住んでいた。現在では、『方寸』と「池袋モンパルナス」の間には何の関連性も指摘されていないが、議論を交わし制作に励む姿勢には、通じるものがあると考える。これまで、個々の研究は個別にしかなされてこなかったので、それらを眺め渡す視点を作りたい。― 55 ―㉛ 池袋モンパルナス草創期の基礎的研究 ─美術ジャーナリズムを中心に─

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