をみない。敦煌莫高窟と安西楡林窟には、現在確認されるだけでも合わせて80例をこえる毘沙門天像が描かれており、一定した条件下での比較が可能であるという点においても重要な作品群である。一方、ペリオやスタインによってヨーロッパに持ち帰られた絹本・紙本画像は保存状態が優れている上、図像的にも特殊な毘沙門天像が多く含まれている。なかでも「行道天王」像は、四川地域では摩崖等の彫刻にあらわされるものの、敦煌では絹本・紙本画にのみ認められる。私は論文⑴において、敦煌壁画の毘沙門天の図像と石窟内の位置に相関関係があると指摘しているが、さらに表現媒体による差異が存在していたかという問題も追求すべきだと考える。 調査研究の対象とする絹本・紙本画は、独尊の毘沙門天像が敦煌地域で流行した最盛期の作品にあたり、敦煌地域独自の信仰に加え、中原の流行をも如実に反映している。また、晩唐〜宋時代の壁画における毘沙門天像は、中唐期の流行を受け、より様々なスタイルの図像が急増する。作品の個別研究をもとに図像と様式の変遷を追うことは、東アジアの毘沙門天像に関する基礎研究を行うためには欠かせない。 敦煌において独尊の毘沙門天像が流布しはじめる中唐・吐蕃期の主要作品は、そのほぼすべてが戟と宝塔を持ち、立像であらわされる。晩唐・五代からは、正面向き坐像、側面向き坐像、脇侍を多数従える「行道像」の図像が加わり、多様なバリエーションを見せる。上述したように、壁画と絹本紙本画ではあらわされる図像が異なり、つねに位置が固定される壁画と、運搬によって移動可能な絹本紙本画の受容・使用目的に差別があった可能性がある。四川地域等との作例とも比較することで、ペリオ・スタインコレクションと敦煌壁画における毘沙門天像の史的位置をあらためて位置づけ、個別の作品研究を深めていくことが本研究における第一の目的である。研 究 者:根津美術館 学芸員 多比羅 菜美子本研究の目的は、注文主と職人である柴田是真(1807−1891)、その作品との関係を実作品と文献資料から検証することにより、注文主側からみた当時の一大ブランドを作り出した柴田是真像に迫ることである。工芸品の制作では、注文主の存在は作品に大きな影響を与える要素である。注文主なくして制作される作品は、明治以前までなかったと考えられる。― 57 ―㉞ 柴田是真における受注の研究 ─漆工品を中心に─
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