柴田是真は、図案にはじまる漆工品の制作過程の多くを一貫して自ら手がけた制作態度から、近代的な工芸作家の嚆矢ともいわれている。一方で、どのような注文にもこたえた彼を最後の江戸の職人と位置づける向きもある。多様な作品を残し、世間の高い評価を受けた柴田是真の制作態度は、はたして従来の江戸の職人と異なっていたのだろうか。幕末明治期における漆の職人としての柴田是真の制作態度を知ることを通して、工芸において産業的な生産と個人作家の美術的な制作活動とが乖離していく画期を明確にすることができるにちがいない。その成果は、柴田是真の個別研究にとどまらず、幕末明治期にかけての工芸の展開をも明らかにすることができるのではないかと考える。研 究 者:関西学院大学大学院 文学研究科 研究員 山 本 野理子暁斎若年期における錦絵制作は、作品数において文久年間にピークを迎える。本研究は、暁斎がこの時期において、どのように浮世絵画壇に進出していったのか、また彼の錦絵作品が、どのようにして大衆に享受されていったのかという問題の解明を、第一の目的とする。前出の虚心の記述にあるように、暁斎が絵師として間もなく、糊口をしのぐために浮世絵を描いたということに異論はない。だからといって、この期における暁斎の浮世絵作品を過少評価するのは、あまりに一面的な考えであろう。一方で、虚心は同著において、暁斎が文久2、3年(1862、63)頃に、三代目歌川豊国(初代国貞、1786−1864)に入門したことについても触れている。このことは暁斎が錦絵を多作した時期と重なるという点において注目に値する。しかしながら、従来の暁斎研究における画風の分析に関して言えば、幼少期のごく短期間に入門していた歌川国芳との影響関係から述べられることが一般的である。そこで私は、主に文久年間を中心とした暁斎の浮世絵作品に焦点をあてて考察を進めていきたい。とくに文久3年においては、この年行われた将軍徳川家茂(1846−66)の上洛の様子を東海道の名所風景に描き入れた錦絵シリーズ作品、いわゆる「御上洛東海道」が刊行されている。また文久2、3年には同じく家茂の上洛を題材にした錦― 58 ―㉟ 河鍋暁斎の文久年間の画業について
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