的壁画は様式的にも図像的にもクチャ地域作例との比較だけでは説明できないものである。この第285窟の濃厚な両要素の併存現象は、中国石窟研究の最大の謎の1つである。一方で、敦煌と同じ甘粛地域に存在する炳霊寺石窟でも北魏末〜西魏初の窟で第285窟同様の現象がみられる。それは野鶏溝と称される窟においてである。これらの地でほぼ同時期に同様の現象が起きている背景には、当時甘粛地域で中原(中国中心部)からの影響と共に新たな強い西からの影響も存在したと考えても差し支えないであろう。このことを解明するための1つの手がかりが、当時の東西交易の多くが青海地域及びホータン付近までを領地としていた吐谷渾を経由して行われていたという事実である。吐谷渾経由でそれまでとは異なる西域的要素が強い流れに乗って甘粛地域に流入した可能性があるのだ。そして、その吐谷渾の牛耳った土地周辺で最も大きな仏教都市と言えばホータンなのである。ホータンのダマゴウでは、莫高窟第285窟と同時期の制作になる壁画も発見されているが、ここでは第285窟だけなく炳霊寺野鶏溝の西域的壁画に近い様式がみられる。また、かつてスタインによって発見されたダンダンウィリク絵画には第285窟と共通する図像(シヴァ神)も描かれる。こうしたことによって、ダマゴウ、ダンダンウィリクを重点的に研究することで、中国仏教美術の大きな謎であった第285窟の成立過程の一端を解明できる可能性がある。そしてそれと併せて、相対的分類手法を採ることで、ホータンの仏教美術の様相を具体化すれば、敦煌だけでない中国の諸地域での東西文化交渉の有り様を考察する際により多角的な視点が得られると思われる。研 究 者:東北大学大学院 文学研究科 博士課程後期 伊 藤 麻 衣クラーナハの作風は、画家が宮廷画家として活動したヴィッテンベルクの社会状況を反映している。特に1520年代後半から1530年代前半にかけて、「宮廷様式」と位置づけられる様々な女性表現が定着するが、その時期はルターを支援しつつカトリックとの間のバランスをはかったパトロンであるフリードリヒ賢明公の死と重なり、信仰や社会情勢などが安定したとは言い難い状況であった。そのような中制作された《メランコリー》は、同時期の主要レパートリー作品とは異なり、1530年代半ば以降に定― 63 ―㊶ 16世紀ドイツにおける教訓画に関する研究─ルーカス・クラーナハ(父)の《メランコリー》を中心に─
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