鹿島美術研究 年報第29号
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て、ジャポニザンの実際的な交友関係の把握を目指したい。研 究 者:根津美術館 学芸主任  野 口   剛近年、江戸下向以前の尾形光琳と京都の公家社会との関わりが文献にもとづいて具体的に示される機会が多い。また、光琳の画業における江戸在住期の意義についても優れた論考が備わる。しかし、光琳の魅力がもっとも発揮される、金を多用した屏風が当該期の公家趣味と必ずしも合致せず、また現存する金屏風の多くが帰洛後の制作と考えられ、かつそれらがしばしば大名家や江戸の商家における伝来を持つことなどに配慮するとき、光琳画風の完成や展開を考える方法のひとつとして、銀座役人であった中村内蔵助などの新しいパトロンの役割とともに、生産地として京都(上方)と消費地としての江戸を結ぶ「流通」のあり方や、作品の「伝来」実態のさらなる見極めが浮上するように思われる。本調査研究は、屏風の受注ないし斡旋を依頼する内容を持つ、筆跡から初期のものと考えられている光琳自筆書状に見える「ながさき(長崎)」が、近年の岡佳子氏の研究に示されるところの、唐物屋街であった江戸の霊巌島長崎町である可能性を持つことを出発点とする。その可能性の上に立つと、下向以前の光琳画、なかんずく屏風にすでに江戸での享受を前提としたものがあったこと、書状を宛てられた人物も京都(上方)と江戸の間の流通になんらかの関わりをもつことなどが想定され、ひいては光琳初期の作画とその環境に新しい光があてられるのではないか。自らの江戸下向の誘因とも想像される、これら自筆書状に記された内容を関連する文献の調査にもとづいて解析することは、一定の意義を持つと考える。江戸下向の前と後では光琳と江戸を結ぶ回路も変化したと思われるが、帰洛後に光琳が制作した作品が江戸に藩邸を持つ大名家や当地の商家に伝来した事実は、依然として京都から江戸へ光琳画が流通したことを物語る。これらの伝来は、それを制作時における注文主ないし享受者と直結できない徴候も見受けられるため注意を要するが、多くが大画面の屏風である点において、光琳の画業を考えるうえで無視できない。伝世過程での作品移動の痕跡もふくめ、個々の作品の伝来を再確認することは、光琳の作品制作の場への遡及につながるだろう。― 74 ―■ 光琳画業の研究 ─作品の「流通」および「伝来」の観点から─

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