としたい。『図本叢刊』は、大正12年から同15年にかけて、大村の主導のもと刊行された絵入り漢籍の復刻叢書である。研究者がこの『図本叢刊』の刊行に重要性を見出す理由は2つある。第一点は、従来巷間に流布していなかった稀覯本を蒐集して復刻した、極めて意義深い刊行事業であったということ。そして第二点は、編者の大村が、非常に広い範囲で原本の採集を行っていることである。大村は、彼の活動拠点である東京美術学校が所蔵する『蘿軒変古箋譜』を原版として刊行したのを皮切りに、善本珍籍を『図本叢刊』の原版とするため、東京以外の地にも足を運び、更には中国の文人・画家が所有する漢籍までをも借用している。こうした広範囲にわたる原本の蒐集は、大村と国内外の人士との密接な交流があって初めて達成されたものであると推測される。本調査研究では、『図本叢刊』の成立に関わった人物・機関を改めて精査することにより、大村がどのような人的ネットワークの中でこの叢書を創り出したのか、そしてこの叢書がいかなる人々にどのように受容されたのかについて検証することとする。これらによって得られる成果は、大村の交友関係の把握のみに止まるものではない。より大局的に見るならば、本調査研究は、ヒト・モノ・情報の移動が特に活発に行われていた1920年代の日中間において、具体的にどのような文化的営為がなされていたのかを解明するための糸口となることが期待されるのである。研 究 者:日本女子大学大学院 人間社会研究科 博士後期課程 修士論文では伊藤若冲の画業前半期の宝暦九年(1759)に制作された鹿苑寺大書院障壁画に関する研究を行い、新たな制作背景として十八世紀京都の芸術文化を盛り上げた売茶翁を中心とする文人サークルとの関係性や、当時活発化した禅宗寺院の復興運動との連動性を指摘した。従来の若冲研究においては、最大の理解者であった相国寺の僧・大典(1719−1801)を媒介とした禅宗寺院や禅僧、文人たちとの関係は述べられてきたが、とくに禅宗寺院の動向と若冲の制作活動及び作品との影響関係につい森 下 佳 菜㊿ 十八世紀における禅宗寺院の復興運動と芸術活動に関する研究─若冲初期作品、とくに「髑髏図」に注目して─
元のページ ../index.html#104