鹿島美術研究 年報第30号
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 3.大津絵再考―近世絵画史における大津絵の位置づけ― 発表者:関西大学大学院 文学研究科 博士課程満期退学 谿   季 江秘思想の広がりを検証する。ロレーヌでは公爵家や画家の郷里の町ヴィック=シュル=セイユの有力な一族の支援のもと、1611年の首都ナンシーをはじめ、17世紀前半に同会の修道院の設立が相次ぐ。古文書館の資料などから、新しい聖堂内は多くの絵画作品で装飾されていき、そこでは画業上の意図もあってか同会への帰依の姿を誇示するクロード・ドリュエのような宮廷画家も現れたことが分る。また1618年にアルカラで出版された十字架のヨハネの最初の著作集がナンシーの修道院に伝わるなど、会の進出に伴い、神との合一にいたるまでに通り抜けねばならない「暗夜」の試練を説くその思想も伝播していったと見られる。ロレーヌ宮廷の詩人アンリ・アンベールは、1624年に『暗闇(Les Tenebres)』と題した詩集を出版しロレーヌ公妃に献じるが、本書はナンシーの修道院の蔵書にもなっており、「暗夜」の思想の広がりを受けて成立したものとも考えられる。そして同年にラ・トゥールはロレーヌ公から作品買い上げを受けており、地域的なつながりを考慮すれば画家が修道会やその思想に触れていた可能性は高い。またロレーヌの遺産目録などの調査から、跣足カルメル会修道院や同会に関わりのある人物などが「夜の絵」を所持した例も確認される。つまり実際に「暗夜」の修練が実践される場やその周縁で「夜の絵」は受容されていたのである。最後にこれらを踏まえて、ラ・トゥールの絵画に見られる特徴的な闇に関する表現に関して、「暗夜」の思想や当時のエンブレム集などにも照らし合わせながら、解明を試みたい。このように「夜の絵」の制作背景にあるロレーヌの社会を振り返ることで、様々な象徴的解釈が行われてきた「光」だけでなく、当時ラ・トゥールの絵画世界の「闇」が有していた豊かな意味が浮かびあがってくるのである。江戸時代、大津周辺の街道を往還する人々の間で土産品として人気を博した「大津絵」は、柳宗悦(1889−1961)がその美的価値を見出し、「民藝」(民衆的工藝)として評価したことで知られている。そのため、これまでの大津絵研究は、柳による大津絵論を中心に展開してきたと言えるだろう。大津絵研究における柳の功績は大きいが、一方で柳以降、大津絵を民藝としてとらえる見方が主流となり、その他の視座からは十分な議論がなされてこなかったように思われる。そこで本発表では、民藝理論

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