鹿島美術研究 年報第30号
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 4.ヴィッラ・マダマ、左廊ヴォールトの《ネプトゥヌス》    ―「クオス・エゴ」とレオ10世称揚の図像― 発表者:東京藝術大学 美術学部 教育研究助手 深 田 麻里亜ローマの北西、モンテ・マリオの丘に建つヴィッラ・マダマは、教皇レオ10世の注文によってラファエッロが構想した古代風建築である。建設は1518年頃より開始され、1520〜21年にラファエッロとレオ10世が相次いで没すると、その計画は枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(1523年に教皇クレメンス7世として即位)をパトロンに、ラの枠組みを離れ、大津絵と同時代に生きた人々の視点から大津絵を考察する。近世絵画史を概観すると、大津絵図様をモティーフとした作品をしばしば目にすることがある。窪俊満(1757−1820)、北尾政演(1761−1816)、河鍋暁斎(1831−1889)らの浮世絵師をはじめ、円山応挙(1733−1795)、松村呉春(1752−1811)、森一鳳(1798−1782)などの円山・四条派画家、池大雅(1723−1776)、与謝蕪村(1716−1783)などの文人画家、中村芳中(生年不詳−1819)、神坂雪佳(1866−1942)などの琳派画家、そして久隅守景(生没年不詳)、鶴沢探索(生年不詳−1797)などの狩野派画家といったように、実に多様な流派の画家が大津絵に着想を得た作品を残している。このことから、当時の画家は少なからず大津絵に関心を抱いていたと言える。これらの作品を分析すると、とりわけ⑴大津絵のおおらかで親しみやすい画風や、速筆により簡略化された運筆等の絵画表現、⑵「藤娘」や「鬼の念仏」などの個性あふれる図様、そして⑶風刺や諧謔味に富んだユーモア精神に関心が向けられていたことがわかる。また、当時の随筆集や画論書などの資料に記された大津絵に関する記述を検討すると、大津絵は一流派に類する扱いを受けていたことを窺い知ることができ、各派融合の動きがみられた江戸時代中後期において、大津絵は学ぶべき対象の一つとしてみなされていたと考えられ、当時の専門画家が大津絵に関心を抱くようになった背景を垣間見ることができる。以上のように、本発表は大津絵と同時代に活躍した専門画家が制作した作品、及び当時の文献資料を検討することにより、これまでの民藝としての大津絵研究を脱し、近世絵画史における大津絵の位置づけを明らかにするものである。

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