鹿島美術研究 年報第30号
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東アジアにおいて、このような舍利の奇跡性/神異性に対する信仰が比較的早くから活発であったことは、すでに先行研究によって明らかにされるところであるが、その成果を舍利容器自体の考察や理解に役立てる試みは未だ十分行なわれていないように思う。本研究は、舍利容器の荘厳を舍利自体の「動き」に対する信仰から考え直してみようとするものである。東アジアにおける「入れ子型」舍利容器の多くは、ひとつひとつの容器の表面に様々な素材と装飾方法を駆使した荘厳が施される。これらの荘厳は、舍利容器を扱うこと(入れ子状に納まっている容器を取り出す、あるいは戻す等)、また容器が納められた状態で平面と平面が重なり合っていることによって、お互いに関連しあう。そして、これらの「平面」は入れ子状に配置されることで、必然的に時間的な流れや空間的な広がりを内包していると考えられる。「入れ子型」の舍利容器は、この時空の変化を利用し、信者による仏舎利への供養とそれに感応する仏舎利そのものの動きの両方を表現していたのではないか。また、舍利容器及び(しばしば真珠や玉等で代用された)「舎利」そのものは、「仏舎利が衆生の救済に向かって働いている過程」という、いわば常に現在進行形な期待と奇跡を演出していたのではないか。本研究では、このような仮説を出発点とし、舍利容器の荘厳を総合的に検討することで、舍利容器の意義や期待された効果、更には東アジアにおける舍利信仰のあり方自体をより深く理解する手がかりとしたい。東アジアの舍利容器は、使用された容器の形状や数、素材、装飾方法、モチーフ等において多種多様であるため、作例ごとにこれらの要素がどのように組み合わせられ、どのような効果を発揮しているかを検討していくことが不可欠となる。今回は、その第一段階として七〜八世紀の舍利容器を中心に調査研究を行なう。八世紀を区切りとするのは、ひとつには、自身の専門である古代日本(特に奈良時代以前)の作例を研究の要としたいためであるが、同時に、この時期が東アジアの舍利容器の形態を考える上で重要な転機であったことにもよる。例えば、七世紀の中国では、それまでの箱型の容器にかわり「片流れ形式」の棺形舍利容器が主流となり、中唐以降にはさらに内容器自体もガラス瓶から棺形に変化していく。一方朝鮮半島では676年に新羅が半島を統一して以降、宝帳や宮殿形式の外容器にガラス瓶を含む内容器を安置する形式が発展する(この形式は厳密な意味での「入れ子型」ではないが、構造的に関連する部分があるため、本研究では対象に含む予定)。日本では七〜八世紀初頭は、仏

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