鹿島美術研究 年報第30号
56/124

研 究 者:和歌山県立博物館 学芸員  安 永 拓 世本研究の目的は、江戸時代に紀州で活躍した画家が、どのような中国絵画を実見し、収集し、所蔵していたかを具体的に明らかにし、それらの表現や画風を比較することによって、紀州の画家が、いかにして中国絵画の画風や表現を理解し、摂取し、自らの画業に生かしていったのかを考察することにある。従来の日本の文人画(南画)研究では、江戸時代の日本にもたらされた明や清の中国絵画は、ある程度、限られていたとされたため、日本の文人画家の多くは、『芥子園画伝』などをはじめとする画譜類から、多くを学んだとみなされてきた。しかし、ジェームス・ケーヒル氏による彭城百川(1697〜1752)の研究に代表されるとおり、日本の文人画家の表現には、画譜類のみならず、実際の中国絵画からの直接的な影響が少なからず指摘できる。こうした状況を受け、近年では、江戸時代の画家が実見し、参照していた可能性の高い中国絵画や、中国絵画収集家と画家との関係が、徐々に明らかにされつつある。ただ、中国絵画を実見した画家自体が、どのようなプロセスを経て、それらを摂取し、自らの画風に取り入れていったのかについては、具体的な模写の事例などが少ないため、充分に検討されていない。本研究では、江戸時代に御三家の一つとして栄えた紀州を主な調査対象とする。紀州は、祇園南海(1676〜1751)、桑山玉洲(1746〜99)、野呂介石(1747〜1828)など全国的にもよく知られた優れた文人画家を輩出した地で、とくに、中国絵画とのかかわりにおいては、南海が、伝唐寅筆「山水図巻」を、介石が、伝黄公望筆「天池石壁図」や伊孚九筆「離合山水図」といった具体的な中国絵画を実見し、それを模写した作例を残している。また、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(1771〜1853)は、自ら書画を嗜んだほか、御庭焼などの陶芸に中国趣味の濃厚な文様や意匠を用いており、江戸時代後期の文人趣味や中国趣味に大きな関心を持っていたことがうかがえる。一方、本州最南端に位置する紀州は、海上交通の要所でもあり、京都から江戸、あるいは長崎から江戸へと運ばれる文物は、全て紀州に面した海上を通過していった。こうした状況から、紀州には、さまざまな経緯で、中国絵画がもたらされた可能性が想定され、調査対象地域とする意義は大きい。近年、玉洲が収集・所蔵していた中国書画のコレクションが一括で確認され、玉洲⑬ 江戸時代の紀州画壇における中国絵画学習の様相

元のページ  ../index.html#56

このブックを見る