鹿島美術研究 年報第30号
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の作例には、それらの一部を模写・引用したものがあることも判明した。また、南海にも、先の伝唐寅「山水図巻」を模写した作例が、近年、さらに発見された。加えて、京都から紀州を訪れた長沢芦雪(1754〜99)が滞在した紀州の寺院には、江戸時代からいくつかの中国絵画が伝来していることもわかってきた。こうした、近年の発見や研究成果を生かしつつ、それらを総合的に比較検討することで、紀州の画家が実見した中国絵画や、紀州の寺社等に所蔵される中国絵画と、紀州画壇とのかかわりについて考察し、それらが紀州画壇、および全国の画家に与えた影響について探りたい。紀州画壇における中国絵画学習の様相や、その具体的なプロセスを解明することは、紀州画壇のみならず、同じ御三家の一つである尾張や水戸における中国絵画収集や文人画家の動向との比較のうえでも興味深い事例となるであろうし、また、全国における文人画の展開との関連においても、有効な一つの指標となると考えられるからである。研 究 者:島根県立石見美術館 主任学芸員  河 野 克 彦明治期の出雲の輸出陶器の全体像を明らかにすることを目的とする。この時期の出雲焼は、海外への輸出を目的とした製品がその生産の中心であった。島根県出雲地方の陶磁器の歴史の中でも、生産量が増え最盛期ともいえる時期であるが、美術館等の施設で大規模な企画展等として取り上げられる機会はまれである。明治政府による殖産興業・輸出振興政策により、出雲焼だけでなく、この時期日本の陶磁器が欧米に数多く輸出された。これにより、欧米のジャポニスムはさらに隆盛し、さまざまな芸術運動に大きな影響を与えた。一方で、日本においても江戸時代からの伝統的な製造方法に加え、欧米の近代的な製造技術や新しいデザインが取り入れられ、世界的に見ても高水準の陶磁器を製造することに成功した。出雲焼も当時のこうした状況のなかで、窯業を発展させ国内でも有数の輸出陶器の産地となった。出雲の陶工の努力は、万国博覧会や内国勧業博覧会に出品し授賞した優れた作品が数多く生み出されたことにもあらわれている。またこの時期の出雲焼は、国内での窯業の先進地である京都、そしてアメリカのシンシナティのルックウッド・ポタリーの優れた技術を取り入れていることが知られている。⑭ 明治期の出雲焼の研究

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