鹿島美術研究 年報第30号
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て再読する博士論文の一部となるものである。そのため、ここでは博士論文のための研究全体の展望を挙げたのちに、その中で本研究が占める役割を述べる。激しい筆遣いやドラマチックな色彩の作風と、権威に反抗的な姿勢で知られるドラクロワは、同時に巨匠の作品や美術理論、古今の文学に多くを学び、物語画の傑作を残した。彼の作品を研究することは、この両面を厳密に掘り下げることといえる。だが、それと同時に「大画家」を孤立させず、画家が生きていた知的・文化的世界を実証的研究により蘇らせることの重要性が認識されつつある。絵画制作を芳醇な文化と具体的に関連付けることの意義は、19世紀美術研究では、ドラローシュ作品を歴史観の変化に結びつけて解読したS. バンや、ダヴィッドやゲランの作品様式を古典戯曲の精密なテキスト読解と関連させたJ. ルービンによる成果からわかる。また、詳細な注解を付して新たに編纂されたドラクロワの「日記」(M. Hannoosh ed., Eugène Delacroix: Journal I & II, Paris, 2009.)は彼の幅広い学識と興味を裏付けており、2012年にスペインの二都を循環した回顧展において、同時代の文化との関連は重視されたテーマの一つであった。演劇や音楽との関連に注目する最近の試み(Exh. cat., De la Scène au tableau, Guy Cogeval dir., Musée Cantini, Marseille, 2009等)も、同じ関心を向いているといえよう。研究者の博士論文に向けた問題意識はこうした流れに与し、中でも、七月王政期(1830−48)を主たるフィールドとし、絵画制作の流れを、演劇・文学等文化の潮流との関わりを手掛かりに具体的に記述することを試みている。とりわけ、絵画の主題を糸口として、主題物語の絵画化や版画化に加え、翻訳や翻案、二次創作やパロディ、ボードヴィル、カリカチュアやそれらの受容の様子をも資料とし、19世紀パリの文化の雑多な躍動感を緻密に再構成することを重視する。さて、今回一年間の研究調査に際し《トラヤヌス帝の正義》の作品研究を中心に据えたのは、まさに、本作品が、ドラクロワにおける歴史画制作と文化的背景の関連を考える点で興味深い要素を垣間見せていながら、それらが十分に明らかにはされていないためである。すなわち、『神曲』中に登場する浮き彫りのエクフラシスという入れ子構造の主題、ドラクロワが初めて大画面に描く古代ローマの歴史である点、さらに、制作において美術史家のヴィヨ、舞台装飾に携わるシセリといった他分野で活躍する知人の関与があったとされる点である。そこで、改めて作品と関連図像を調査するとともに、同時代資料を渉猟してドラクロワ作品中に位置づける。その際に、知人

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