鹿島美術研究 年報第30号
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たちの果たした役割を明らかにする。建築物や装飾的細部の表現については、考古学の成果などに着目し、同時代に限らず他の作例と比較することで、特色を指摘する。また、ダンテの『神曲』煉獄篇十歌で記述される古代ローマの挿話や、「煉獄篇」自体に関連する同時代の資料から、主題物語の受容の様々な側面を調査する。以上の調査を経て、ダンテに着想を得た絵画の一つであると同時に、古典古代を舞台にした一連の作品と共に受容された本作品の19世紀の絵画史における意義を確認したい。研 究 者:府中市美術館 学芸員  小 林 真 結本研究は、幕末から明治期にかけて、和歌や俳句といった詩歌と絵画との関わりがどのように変化したかを探ることを目的とする。近世における和歌・俳句と絵画の関係に関しては、武蔵野図などの名所絵、歌仙絵、また浮世絵や版本、工芸といった諸分野において検討され、和歌や謡曲を含む重層的な文芸イメージの中にそれらが醸成されてきたことが明らかにされている。しかし近代においては、絵画は文学から独立し純粋性が追求されるべきものとなった。書画分離が推し進められた結果、展覧会会場の絵画からは前時代のような画賛や色紙形の文字は姿を消し、それらが絵画の主題として用いられることも減少したように見える。これは明治期の文学を取り巻いた状況とも関係している。和歌については、江戸時代後期から続く桂園派が台頭し、明治政府の元でも宮内省派・御歌所派と称され中枢を占めた。この時期には王政の復古が宮廷文学としての和歌の復興と連動しており、宮中の御歌会においても古今集を踏まえた題詠が行われている。それに対して、明治15年の新体詩運動、明治20年代半ばの浅香社による革新運動が起こり、与謝野鉄幹と正岡子規による桂園派攻撃・古今集の否定へと続く。この変革の時代を経て、明治30年代には『明星』の創刊に代表される詩歌の新時代を迎えた。幕末明治期の絵画記録を参照すると、絵画の画面上から姿を消した詩歌を書く文字は、新たな形で近代美術の中に溶け込み、その居場所を見つけていくようである。明治20年代に日本美術協会がその課題設定において宮中御歌会御題をそのまま用いていることは、当時の和歌復興の状況と対応している。その後和歌と絵画とを対応させる伝統的な形式は、宮中装飾にその命脈を保っていく。また展覧会出品作品に賛を付す⑰ 近代美術における詩歌と文学

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