があると考える。また、法会と造像の関係を考察していく上で、研究者は法隆寺金堂の吉祥天・毘沙門天立像に着目している。法隆寺像は、関連史料によって明らかとなっている承暦2年(1078)の造立以来、これを本尊とする「修正会」が現在まで続いているため、制作年が判明する基準作というだけでなく、吉祥天の法会と造像の関係を考える上で主軸となり得る作例であると考えられる。よって、本研究に法隆寺像のような一例を加味することで、平安時代おける吉祥天の法会と造像の関係をより具体的に捉えることができるだろう。以上により、本研究が平安時代における吉祥天の研究に新たな知見を提示するだけでなく、今後の吉祥天像研究の基盤にもなり得るものであると考える。研 究 者:和歌山県立博物館 学芸員 大河内 智 之弘仁7年(816)、弘法大師空海によって真言密教の道場として開かれた高野山については、数多くの研究蓄積と、周知の文化財の存在により、密教・浄土信仰・山岳信仰・弘法大師信仰などが重層的に織りなす、日本の歴史・文化史上に重要な位置を占める宗教的聖地として、既に認知されているところである。特に宗教美術に関わる資料は、金剛峯寺を中心に子院群に数多く残され、日本美術史の研究上、欠くことのできないものとなっている。そうした高野山上における宗教活動は、古代・中世とそれぞれ状況は異なるが、常に高野山麓に暮らす人々との関わりの中で行われてきたといっても過言でない。高野山上は高野山麓に支えられるとともに、また高野山上の僧たちは直接・間接的に文化的な影響を山麓に及ぼし、高野山文化圏ともいうべき一つの文化圏がかたちづくられたと考えられる。平成16年に世界遺産に登録された高野山の歴史的な、また文化的な位置付けをより明確にするために、これまでに断片的な調査にとどまり紹介される機会の少なかった、同一文化圏としての高野山麓に残存する宗教文化財の把握と、その比較研究が必要である。この課題に総合的に対処する上で、本研究では、特に仏像・神像を中心的に取り上げることとする。信仰対象としての仏像・神像は、比較的強度のある素材で造られて⑳ 高野山麓に所在する仏像・神像に関する総合的研究
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