絵葉書、写真等の資料が1932年に亡くなったとみの実家の鴇田家の蔵において発見された。「パリ留学初期の藤田嗣治」研究会が発足し、千葉県史料研究財団、千葉文書館等と連動し書簡資料のマイクロフィルム化と共に、全書簡の翻刻化が行われ2004年に報告書4冊がまとめられた。1913年6月発信の渡仏する日本郵船三島丸からの便りにはじまり1916年11月ロンドン発の絵葉書で終ることになる179通の書簡は、1913年28通、1914年66通、1915年67通、1916年18通となっている。2004年翻刻以降、数名の研究者が「パリ留学初期藤田妻とみ宛書簡」を基にした研究を進め書籍及び論文等を発表されており、各研究者それぞれの視点で藤田の作家論における伝記的な考察に役立ってきたといえよう。◆研究者は、藤田嗣治が手掛けた舞台美術作品を現時点で9作品特定し、藤田の舞台美術と劇場空間に関して、美術史学を基本にして演劇学及び舞踊学的な視点も交えた研究を進めている。その研究対象作品には1924年パリ、シャンゼリゼ劇場におけるバレエ・スエドワの前衛バレエ公演『風変わりなコンクール』や1946年東京、帝国劇場における日本人ダンサーによる『白鳥の湖』全幕初演が含まれ、バレエ、ダンスの舞踊分野は大いに関係している。研究者としては留学初期に藤田が舞踊家レイモンド・ダンカンのアカデミーでギリシア舞踊を習得したことは何らかの関連・影響があるのではないかと推察しており、その視点で「パリ留学初期藤田妻とみ宛書簡」を今春から検証していた。書簡9番1913年8月19日発信の「川島理一郎と友になった」という報告から、書簡74番1914年9月30日アカデミーのあるモンフェルメイユの土地を購入し自給自足の生活を営んだ小屋が第一次世界大戦でフランス軍の兵站基地のために接収されたという報告までのおよそ65通の文書資料が、このギリシア舞踊習得に関連する部分と判明した。特に1914年4月に川島と共にモンフェルメイユの土地を購入し小屋を建て自給自足の生活を営んでから第1次世界大戦が勃発するまでは、生活全般の希臘化が行われ絵画制作活動も含めて生活全てがアカデミーでのギリシア舞踊習得と一体化するまでになっていることが赤裸々に語られている。◆2009年パリ・ブールデル美術館で開催された「ISADORA DUNCAN UNE SCULPTURE VIVATE」展は美術史学視点で大規模にイザドラ・ダンカンをテーマにした美術展で、この美術展でレイモンド・ダンカンの資料も公開された。特に、本研究と関連するのはダンカンのパリ郊外モンフェルメイユのアカデミーに関する写真資料で、「藤田妻とみ宛て書簡資料」にある藤田が撮影したギリシア舞踊の写真と一致すると考えられる。またイザドラの舞踊がギリシアを源にした自由奔放なダンスであ
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