るのに対して、思想家、哲学者、教育者でもあったダンカンは、ルーヴルのギリシア美術を模写した新しいダンスのポーズを研究する等、非常に静なる舞踊であったことも近年の研究によって判明してきている。また、2009年はバレエ・リュス結団100周年で、関係各国で復元上演やシンポジウム等々が開催され様々な研究が報告されているが、藤田はパリ留学初期においてバレエ・リュスを観ており、書簡にもそのことが示されている。1909年から1910年代にかけてのバレエ・リュスの作品はオリエンタリズムの特色を色濃く反映させている。特に、1912年5月初演のニジンスキー振付のギリシア神話を題材にした『牧神の午後』は、イザドラ及びレイモンド・ダンカンとの関連が近年指摘されているため、これについても注目したい。■以上の通り本研究は「パリ留学初期藤田妻とみ宛書簡」資料を舞踊家レイモンド・ダンカンのアカデミーでのギリシア舞踊習得に特化して分析及び検証を行い、舞踊学におけるレイモンド・ダンカン研究と比較検証しながら、藤田嗣治初期絵画作品におけるギリシア舞踊の影響に関して新たな視点を持って考察を行うものである。渡欧前の東京美術学校で学んだアカデミックな手法から離れて、前衛美術家達との交流を通してキュビスムを模索し、プリミティブな絵画スタイルへと展開していく過程において、舞踊家レイモンド・ダンカンのアカデミーでのギリシア舞踊の習得やルーヴル美術館におけるギリシア、エジプト美術の模写等の藤田の古代へ回帰する試みが藤田嗣治初期絵画制作に直接的にまた間接的に影響を与えたことを、美術史学を基本にして演劇学及び舞踊学的な視点も交えた研究を進めるものである。研 究 者:東京大学大学院 総合文化研究科 特任研究員 奈良澤 由 美教会と祭壇の建造と聖別のために聖遺物の存在は欠かすことができないが、初期キリスト教時代には、聖遺物の安置場所、安置方法、安置のための儀式などをめぐって地域差が大きく、一律の規定は存在していなかった。殉教者の遺骸を細分化することや副次的な聖遺物(エウロギア)の崇敬についての抵抗は長く続いたと推測され、特にガリア地方はキリスト教徒迫害の時代に遡る殉教者の墓の存在自体が稀であり、聖遺物の安置と展示をめぐって、初期の時代には後の時代には放棄された様々な形態が存在していたと推定される。㉔ 聖なる形:ナルボンヌの「聖墳墓のメモリア」をめぐる研究
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