鹿島美術研究 年報第30号
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のという指摘があるものの、漠然と九品往生に基づいたものという解釈が多くなされてきた。浄瑠璃寺九体阿弥陀像は、平安時代後期に造立された九体阿弥陀像の遺例として、「九体阿弥陀」という特異な造像の意味を理解する上で重要な作例である。しかしながら、その制作年代はいまだ定説がなく、造像背景や、九体阿弥陀像全体の総括的な研究も十分になされてきたとは言い難い。本研究は、これまで個別の問題として議論されがちであった浄瑠璃寺九体阿弥陀像について、南山城という地域性や浄瑠璃寺史を踏まえ、さらに平安時代後期の信仰に則した広い観点から捉え直すことを目指したものである。そもそも浄瑠璃寺は南都文化圏に属し、十二世紀半ばには興福寺一乗院の祈願所となっていた。これまで浄瑠璃寺九体阿弥陀像は、定朝様の仏像として、特に京都に伝来する同時代の像と比較検討されてきたが、仮にその造像に興福寺が関係していた場合、奈良仏師の関与も想定されることから、奈良および南山城に伝来する作品を精査する必要性があるだろう。制作年代や仏師系統の分析を行い、浄瑠璃寺史も踏まえた上で、あらためて浄瑠璃寺九体阿弥陀像を検討することで、その制作年代について一定の見通しを立てられると考えている。また、浄瑠璃寺はもともと薬師如来像を本仏として祀り、九体阿弥陀像造立後も変わらず薬師如来を重視していた寺院と考えられる。像法の末頃、薬師如来には極楽浄土への引導が期待されており、このことは、末法到来後に極楽浄土の教主たる阿弥陀如来への期待が高まった信仰背景と関係があるものと推測される。そこで浄瑠璃寺薬師如来像と九体阿弥陀像の関係性に着目し、類似する事例を検討することで、浄瑠璃寺九体阿弥陀像造像の背景を明らかにし得ると考えている。それと同時に、阿弥陀如来像を九体安置するという九体阿弥陀像個別の造像意義についても再考する必要がある。九体阿弥陀像は現存作例がほとんどないため、その考察は主に史料を活用することとなるが、浄瑠璃寺九体阿弥陀像の検討は、かつての九体阿弥陀像の様相を明らかにすることにも繋がっていくだろう。以上のように、浄瑠璃寺九体阿弥陀像に関する考察は、平安時代後期彫刻史の中における本像の制作年代の位置づけという問題のみならず、当該時代の薬師信仰と阿弥陀信仰の連続性に基づく阿弥陀如来像造像の意味や、九体阿弥陀像全体の様相を検討することにも繋がっており、本研究は同時代の阿弥陀如来像の造像意義について多面

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