同士の交遊、文人文化と大衆文化の交錯などが総合的に論じられている。特に游記に関しては、周振鶴(「従明人文集看晩明旅游風気及其与地理学的関係」『復旦学報』2005−1)によって、16世紀後半頃、旅游に対する価値観の変化が生じ、旅の経験が個人の名声を高めることにつながるようになって、それを記録し伝えるための游記の執筆が盛んになることが論じられている。同様に個人的な旅游経験を重視した実景山水図については、Li-Tsui Flora Fu(Framing Famous Mountains, The Chinese University of Hong Kong, 2009)が、葉澄・謝時臣(1487−・1567−)・宋旭(1525−1607)の作例を挙げて、画家・注文主の旅の記憶あるいはそれへの憧憬を記念・誇示するための絵画制作を論じている。案内書や地図など、テキストやイメージによる旅游先の景観の情報が増加していく中で、個人的経験をいかに絵画に反映させるか、個人が感じた旅游の魅力をどのように伝えるかは、画家にとって重要な課題となる。そのような観点から明代実景山水図の多様な展開を記述し、旅游文化の隆盛が明代の山水表現に与えた影響を明らかにすることは、中国山水画史研究の発展に大きく寄与するだろう。ただしそのためには、Li-Tsui Fuの研究を踏まえつつ、さらに多くの個別作例を検討する必要がある。このような調査研究を行うにあたり、旅游文化の最盛期である晩明期、絵画制作の中心地蘇州で、紀游山水図を多く手がけた張宏(1577−1660?)は、特に重要な画家である。また、その画業の成熟期の作品である「越中真景図冊」(1639年、大和文華館蔵)は、自跋によって明確に自分の個人的旅游経験を作品に反映させようとする姿勢が示されている点、王履(1332−1385?)「華山図冊」(1383年、北京故宮博物院、上海博物館蔵)に始まる明代紀游山水図冊の流れを引く点、西洋絵画の影響など伝統的な中国の山水図におさまらない特異な表現が注目されている点から、明代の旅游文化と実景山水図の展開を考察するのに欠かせない布石となるだろう。葉澄・謝時臣・宋旭らとの連続性をふまえて、本図を歴史的に位置付け、さらに、清代初期に制作された黄山をめぐる実景山水図との関わりも視野にいれつつ、明・清時代における旅游文化を背景にした実景山水図の歴史を構築していきたい。
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