なケースが多々発見されることだろう。とくに朝鮮では儀礼の調度としての屏風に関する記録が多く残されており、それを日本との交流の舞台に開くことで多くの知見が共有される利点がある。屏風絵に対する意識の差異をいっそう立体的に明らかにすることができると考えている。このような両国間の差異と、共通性を理解することは、それぞれの文化の特徴を尊重する上で極めて意義深く、ひいては中国文化の受容という共通分母を持ちながらも、変化変容を繰り返して今日に至り、なかなか相手を知ることの少ない日本と韓国の国際交流の発展に寄与するものと信じられる。研 究 者:国立西洋美術館 主任研究員 陣 岡 めぐみドラクロワと工房、素描のアトリビューションをめぐっては、国立ドラクロワ美術館友の会研究紀要の2011年度の最新号にも、ドラクロワの工房印の問題に関するリナールの論文が掲載されたばかりである。さらに2012年度号にもセリュラスの関連論文の掲載が予告されており、現在のドラクロワ研究において最も注目を集め、次々と新しい研究成果が生まれているテーマの1つである。ピエール・アンドリウは、現在では忘れられた画家の一人だが、ドラクロワにとって、サン=シュルピス教会の壁画(1849−61年)や「アポロンのギャラリー」(1850−51年)に続いて、「平和の間」の壁画制作の助手をつとめた重要な弟子である。また、旧パリ市庁舎内に保管されていた初期資料とともに焼失した「平和の間」の天井画を考えるうえで貴重な一次資料となっている、1882年のマリウス・ヴァションと1885年のアルフレッド・ロボーによるドラクロワの挿絵入りカタログ・レゾネにおいて、挿絵の下図を描いたのもアンドリウである。一方、後年、ドラクロワの色彩論について記した別の弟子ルネ・ピオによれば、ドラクロワは壁画制作の前に弟子に徹底的に自分の素描の模写を命じたといい、その過程で多数の模写素描が生じたことが推測される。ドラクロワの死後、工房に残されていた素描や、アンドリウに遺贈された素描、あるいはこうした弟子たちの素描が、遺族や画商の手を経るうちに混同されていったことが推測される。さらに、ドラクロワの工房印が必ずしも画家自身の作品の真正性を保証するものではない上に、複数の存㊲ ドラクロワ「平和の間」天井画をめぐる素描研究
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